先日、図書館で金子みすゞの詩集を借りて読んだ。
私は今、詩を書く練習をしている。といっても、何かの賞を目指しているわけでもなければ、詩人になりたいという明確な目標があるわけでもない。
ただ、昔から息を吐くように頭の中に浮かんでいた言葉たちを、これまでは書き留めずに通り過ぎてきた。それをちゃんと拾ってみたら、何か次の景色が見えるかもしれない。そんな気持ちで詩を書き始めた。
そんなタイミングで読んだのが、金子みすゞの詩集だった。
印象に残った「大漁」という詩
特に印象に残ったのは「大漁」という詩だった。
人間たちは魚がたくさん獲れたことを喜び、お祭り騒ぎをしている。
けれど、その一方で魚たちの側から見たらどうだろう。
たくさんの仲間が命を落としている。
人間にとっての祝祭は、魚にとっての弔いなのかもしれない。
そんな視点が描かれていた。
そして、そこに描かれているのは、生き物を人間と対等な存在として見つめる視点のような気がした。
金子みすゞの詩に感じた寂しさ
もうひとつ印象的だったのは、金子みすゞの作品の奥に流れている寂しさだった。
兄弟との関係や、お母さんへの思いが描かれた詩を読んでいると、
「私はこんなにお母さんのことを考えているのに」
という気持ちが行間から伝わってくるように感じた。
もちろん、それは私の解釈にすぎない。
けれど、詩全体を通して、愛情を求める気持ちや、自分の居場所を探しているような感覚を私は何度も受け取った。
そして、その寂しさを直接叫ぶのではなく、別のものに託して表現しているところに、金子みすゞという人らしさを感じた。
詩を書き始めた今だから気づいたこと
実は私は、詩集を読んでいたとき、公園のベンチに座っていた。
目の前の葉っぱや枝、生き物たちを眺めながら、そこから詩を書く練習をしていた。
そのとき気づいたのは、同じ景色を見ても、人によって切り取るものが全く違うということだ。
金子みすゞは魚を見て魚の悲しみを想像した。
私は魚を見たら、その魚が見ている景色を想像したくなるかもしれない。
誰かは漁師の暮らしを書くかもしれない。
誰かは海そのものを書くかもしれない。
同じ景色なのに、切り取るものが違う。
そして、その違いこそが個性なのだと思った。
これから書きたい詩
今後書いてみたいのは、やはり子どもたちのことだ。
長女や双子たちを何年も観察してきた。
育児日記もある。
写真もある。
記憶もある。
それらを少しずつ掘り起こしながら詩にしていくことは、きっと意味のあることだと思う。
性別の違和感についても、いつか詩にするかもしれない。
ただ、それはまだ少しエネルギーが必要なテーマだ。
だから今は無理に書こうとは思わない。
まずは目の前にある景色を観察して、その中から言葉を拾っていきたい。
おわりに
何を書くかではなく、何を切り取るか。
同じ景色を見ても、人によって見えるものは違う。
その違いこそが、その人だけの個性なのだと思う。
私もこれからたくさん書きながら、自分が何を切り取る人なのかを探していきたい。

