子どもに守られている私に気づいた日|多目的トイレで感じた、ノンバイナリーな自分の安心感

こんにちは。
3児の親であり、ノンバイナリー/Xジェンダーのユウです。

先日、子どもたちを連れて葛西臨海水族園へ行ってきました。

子ども3人と親2人。
にぎやかで、慌ただしくて、荷物も多くて、移動だけでもちょっとした冒険です。

子ども連れのお出かけでは、トイレの場所がとても大事になります。

おむつ替えができるか。
ベビーカーごと入れるか。
子どもを立たせたり、手伝ったりできる広さがあるか。

だから、多目的トイレを使う場面も自然と増えました。

その日も、葛西臨海公園駅の多目的トイレを使いました。

車椅子の方や、ベビーカーの方も使っている場所。
先に誰かが使っていれば、そこに並んで待つ。
順番が来たら、子どもたちと一緒に中に入る。

そんな当たり前の流れの中で、ふと気づいたのです。

「あ、私、多目的トイレを使うことに、今は抵抗がないな」

そして同時に思いました。

それは、子どもたちが一緒にいてくれるからなんだ、と。

目次

子どもがいることで「使っていい人」になれる

子どもと一緒に多目的トイレを使うとき、私にはほとんど緊張がありません。

それは、目的がはっきりしているからです。

子どものおむつを替える。
子どものトイレを手伝う。
ベビーカーごと入る必要がある。

それは、多目的トイレが用意されている目的にかなった使い方です。

だから、周りから見ても自然だと思います。

ベビーカーを押して、子どもを連れて多目的トイレに並んでいる人がいたら、きっと多くの人は「使っていい人だ」と思うでしょう。

その安心感は、とても大きいものでした。

私は子どもたちと一緒にいることで、何かを説明しなくても、多目的トイレを使う理由を持っている人として、そこに立つことができる。

そのことに、私はじわじわと気づいたのです。

でも、その安心感の奥には、もう一つの気持ちがありました。

私は、子どものために多目的トイレを使っています。

けれど同時に、ノンバイナリーである自分にとっても、そこを使えることが救いになっていたのです。

私ひとりだったら、きっと立ち止まってしまう

子どもが一緒にいないとき。
私ひとりで外にいるとき。

多目的トイレを使うことには、まだかなり心理的なハードルがあります。

もちろん、物理的には使える場所です。
けれど、私の中では簡単ではありません。

「本当に必要な人が来たらどうしよう」

「車椅子の人やベビーカーの人が優先なのに、自分が使っていていいのかな」

「並びたくないから入った人だと思われないかな」

そんなことを考えてしまいます。

男女別のトイレが並んでいて、多目的トイレだけ空いている。
その状況で私が多目的トイレに入ったら、周りの人にはどう見えるだろう。

私の事情は、外からは見えません。

私は車椅子を使っているわけではない。
ひとりのときはベビーカーもない。
ぱっと見て「多目的トイレを必要としている人」には見えないかもしれない。

だから、入る前に周りを見渡してしまう。
入ってからも落ち着かない。
出るときも、誰かに見られていないか気にしてしまう。

多目的トイレは、私にとって「使える場所」ではあるけれど、まだ「安心して使える場所」とは言い切れないのです。

メンズライクな服を着たい気持ちと、トイレの不安

私は、ボーイッシュな服やメンズライクな服も好きです。

髪型やメイクも、メンズライクにしたいと思う日があります。
かっこいい服を着て、好きな自分で外に出たい。

でも、そういう格好をするとき、いつも隣にあるのがトイレの不安です。

女子トイレに入ることに、抵抗が出てしまうのです。

私は、自分が男性に見えるとは思っていません。
でも、メンズライクな格好をして女子トイレに入ったとき、誰かをぎょっとさせてしまわないか、不安になります。

「この人、ここに入ってきて大丈夫なの?」

そう思われるのではないか。
誰かを怖がらせてしまうのではないか。

そんなことを考えてしまいます。

だから、女子トイレに入るときは、できるだけ素早く入って、素早く個室に入り、素早く出ようとしてしまいます。

個室に入っている間だけ、少し安心できる。
でも、洗面台の前や鏡の前では落ち着かない。

自分の顔を見ることすら、少しためらうことがあります。

好きな服を着ているはずなのに、外に出た瞬間、トイレのことを考えなければいけない。

「今日はこの服を着たい」だけでは終わらない。
「この格好で、どこのトイレに入ることになるだろう」まで考えてしまう。

本来、服は自分を少し自由にしてくれるもののはずなのに。
トイレという場所が、その自由にブレーキをかけることがあります。

多目的トイレは、オールジェンダートイレではない

ここで難しいのは、多目的トイレが「誰でも自由にどうぞ」という場所として作られているわけではない、ということです。

もちろん、多目的トイレは必要な人のために開かれた場所です。

車椅子を使う人。
ベビーカーを使う人。
介助が必要な人。
小さな子どもを連れた人。

そういう人たちが優先して使える場所として、公共の場に用意されています。

だからこそ、私はひとりで多目的トイレを使うことにためらいがあります。

私の困りごとは、今の一般的な多目的トイレの「想定されている利用者」の中には、まだはっきり入っていないように感じます。

女子トイレには入りづらい。
男子トイレに入るわけでもない。
多目的トイレも、自分のためだけに使うにはためらいがある。

そうなると、どこのトイレにも居場所がないような気持ちになることがあります。

一方で、カフェやコンビニ、レストランなどにある、性別に関係なく使える個室トイレには、ほっとします。

「あ、これは使える」

そう思えるだけで、外にいる緊張が少しやわらぎます。

トイレは、ただの設備ではありません。
私にとっては、外にいるときの安心感に深く関わる場所なのだと思います。

親というポジションに守られている

子どもがいることで守られている。
私は、トイレのことに限らず、日常の中でよくそう感じます。

子どもと一緒にいると、周りから私は「親」として見られます。

それは時に、「ママ」や「お母さん」という言葉で呼ばれることでもあります。
その呼び方に、少し違和感を覚えることもあります。

でも同時に、親というポジションが私を守ってくれている感覚もあります。

子どもがいると、それ以上のことをあまり詮索されません。

「彼氏はいるの?」
「彼女はいるの?」
「結婚しないの?」
「子どもはいらないの?」

そういう質問をほとんど受けなくなりました。

もちろん、そのために子どもがいるわけではありません。
けれど、社会の中で「親」として見られることで、ある種の干渉から守られている部分は確かにあります。

親というラベルは、私にとって完璧に心地いいものではありません。
でも、社会の中では、そのラベルが私を少し隠してくれることがあります。

性別や恋愛や生き方について、それ以上踏み込まれずに済む。

「親なんですね」

その一言で、私の説明は終わる。

それが、ありがたいと感じることがあります。

子どもたちは、私を「ユウ」として見てくれる

でも、子どもたちの存在がありがたいのは、社会の中で私を守ってくれるからだけではありません。

子どもたちは、私を「ユウ」として見てくれます。

私は、子どもたちに「ユウ」と呼んでもらっています。
その呼び方が、とても嬉しいです。

子どもたちは、私がどんな服を着ていても、基本的に気にしません。

「今日は何の格好してるの?」

そう聞いてくることはあります。

でもそれは、責めるような言葉ではありません。
不思議がるというより、ただ興味を持って聞いているだけです。

「今日はユウの好きなこれを着てるんだよ」

そう言うと、子どもたちはそれをそのまま受け取ってくれます。

好きな服を着ること。
呼ばれたい名前で呼ばれること。
自分が心地いい形でそこにいること。

子どもたちにとっては、それがまだそれほど特別なことではないのかもしれません。

世の中の「普通」や「当たり前」を、これから少しずつ覚えていく前の子どもたちは、私を性別や役割の前に、まず「ユウ」として見てくれている。

そのことに、私は何度も救われています。

親としてではなく、人として一緒にいる関係

子どもたちが、周りの影響を受けて「ママ」や「お母さん」と呼ぶこともあるかもしれません。

でも、そのときも私は、できるだけ話したいと思っています。

「ユウって呼んでくれた方が嬉しいな」

そう伝えることは、わがままではなく、お互いの心地よさを知るためのやり取りだと思っています。

子どもにも、私と好きな方法で関わってほしい。
私も、自分が心地いい形で子どもと関わりたい。

そこには、親と子である以上に、人と人との対等な関係があります。

子どもが私をどう呼びたいか。
私はどう呼ばれたいか。
それを話し合う余地がある。

この関係性は、私にとってとても大切です。

子どもたちは、私を「女性だから」「母親だから」という枠だけで見ているわけではありません。

性別も、性表現も、恋愛も、そこには関係ありません。
子どもたちは、私という人間と一緒にいてくれます。

その関係は、私にとってかけがえのないものです。

見られたくない私が、少し息をしやすくなる

私は、自分にあまり自信がありません。

自己肯定感も高い方ではないと思います。

外にいるとき、できるだけ人と視線が合わない席に座りたいと思うことがあります。
一人で作業するときも、周りから見られにくい場所を選びたくなります。

「見ないでほしい」
「注目しないでほしい」
「恥ずかしい存在だと思われたくない」

そんな気持ちが、日常の中でずっとどこかにあります。

だから、ひとりで外にいるときは、あまり安心できません。

でも、子どもと一緒にいると、少し違います。

子どもがいると、意識が自分から子どもに向きます。

おむつを替えなきゃ。
手をつながなきゃ。
迷子にならないように見ていなきゃ。
転ばないように気をつけなきゃ。

誰かのために動いていると、自分がどう見られているかを考える時間が少し減ります。

そのことが、私を楽にしてくれているのだと思います。

子どもを守っているつもりで、私は子どもたちに守られている。

今回、多目的トイレを使いながら、そのことを強く感じました。

子どもを守っているつもりだったけれど

親になると、「子どもを守らなきゃ」と思います。

危ないことがないように。
困らないように。
不安にならないように。
できるだけ安心して過ごせるように。

毎日、そうやって子どもたちを見ています。

でも実際には、私の方もたくさん守られています。

子どもたちがいることで、私は社会の中で「親」として立つことができます。
多目的トイレに並ぶ理由を持つことができます。
周りから詮索されずに済むことがあります。
自分への視線から、少しだけ自由になれます。

そして家の中では、「ママ」や「お母さん」という役割を超えて、ただの「ユウ」として見てもらえる。

この安心感は、とても大きいです。

子どもを連れているから、安心して使える場所がある。
子どもがいるから、社会の中で少し堂々としていられる瞬間がある。

そのことに気づいたとき、私は少し切なくもあり、でもそれ以上にありがたいと思いました。

ひとりでも安心して使える場所が増えたらいい

もちろん、本当は、子どもが一緒にいなくても安心できる場所が増えたらいいと思います。

ノンバイナリーの人。
Xジェンダーの人。
性別に違和感がある人。
見た目とトイレの性別区分の間で緊張してしまう人。

そういう人たちが、毎回ドキドキしなくても使えるトイレが増えたらいい。

「ここにいて大丈夫かな」と思わずに済む場所が、少しずつ増えたらいい。

それは、特別扱いしてほしいということではありません。

ただ、外に出たときに、トイレひとつで自分の存在を疑わなくて済むようになったらいいなと思うのです。

好きな服を着て出かける。
行きたい場所に行く。
必要なときにトイレに入る。

そんな当たり前のことが、もう少し安心してできるようになったらいい。

そう思います。

ここまで読んでくれて、ありがとうございます。

もし今、 「誰にもわかってもらえない気持ちを、ずっと抱えてきた」 「普通を装ってきたけれど、本当の自分が置いてけぼりになっている」 そんな感覚を、少しでも持ったことがあるなら。

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『ユウからの手紙』

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