私は、「ママ」と呼ばれることがあまり得意ではありません。
もちろん、子どもたちのことは大切です。
子どもを育てている日々そのものを否定したいわけでもありません。
けれど、「ママ」「お母さん」という言葉を向けられるたびに、どこかで少し身構えてしまう自分がいます。
それはたぶん、その言葉の中に、単なる「子どもを育てている親」という意味だけではなく、もっとたくさんのものが重なっているように感じるからです。
家事をする人。
育児を主に担う人。
子どもの感情面を支える人。
家庭の中で、やわらかく、優しく、包み込むように存在する人。
そして、どこかで「女性であること」を前提にされた人。
「母親」という言葉には、まだまだ社会の中で、そういうイメージが貼りついているように感じます。
私自身、自分の性自認を女性だとは思っていません。
ノンバイナリー、Xジェンダー、無性。
今の自分に近い言葉を使うなら、そういう表現になります。
けれど、子どもを産み、育てている私は、社会の中では「母親」と呼ばれます。
そのこと自体を否定したいわけではありません。
でも、「母親」と呼ばれることで、自分がまた「女性」という場所に引き戻されるような感覚があります。
身体的な性別。
妊娠したこと。
出産したこと。
授乳したこと。
そして、子どもの母親であること。
それらが一列に並べられて、「だからあなたは女性でしょう」と言われているような感覚。
でも、私の内側は、そこにすんなり収まらないのです。
「母親だから家事育児をする」は、本当に当たり前なのか
私が一番しんどさを感じてきたのは、母親である以上、家事や育児を主に担うべきだという空気でした。
特に、双子が0歳だった頃のことは、今でも強く覚えています。
私は産後でメンタルも不安定な時期でした。
実家にお世話になりながら、双子の育児をしていました。
夫は仕事の都合もあり、週末に来られればいいくらいの状況でした。
その頃、私は個人事業を始めたばかりで、スクールにもお金を払って学び始めていました。
子どもを育てながら、自分の仕事も育てようとしていた時期でした。
でも、その私に対して、夫からこんなふうに言われたことがあります。
「そんなに頑張らなくてもいいんじゃない?」
「子どもを見るのに集中したら?」
一見すると、気遣いの言葉のようにも聞こえます。
でも、私にはそうは受け取れませんでした。
その言葉の奥に、
「母親なんだから、まず家事と育児をしていればいい」
「仕事や学びは、好きでやっていることでしょう」
という価値観が見えた気がしたからです。
私は、家事も育児もすでにやっていました。
夜中に起きてミルクをあげることも、泣く子をあやすことも、生活を回すこともしていました。
その上で、仕事をしようとしていたのです。
けれど、その家事育児の労働は、「母親だから当然」の中に吸い込まれていく。
そして、その上に積み重ねている仕事だけが、「好きで頑張っているもの」として扱われる。
それが、とても苦しかったのです。
「自分の方が仕事大変だから」と言われた衝撃
あるとき、私は夫に話しました。
私も家事と育児を頑張っている。
その上で仕事もしている。
私も大変なんだ、と。
すると夫から返ってきたのは、
「自分の方が仕事大変だから」
という言葉でした。
その言葉は、今でも印象に残っています。
もちろん、夫の仕事が大変なことは知っています。
勤務時間も、移動の負担も、体力的なきつさもある。
本来なら労働として数えられてもいいずっと運転している時間が、サービス残業になっていたことも理解しています。
でも、それと同時に、私も働いていました。
毎日夜中に交互に起きる双子の面倒を見る。
授乳。
泣いたら対応する。
子どもの命を守る。
日中も育児を続ける。
その合間に、自分の仕事をする。
労働時間で考えたら、私はほとんど24時間働いていて、休憩時間などほとんどない状態でした。
それなのに、私の育児や家事は「仕事」として見られていない。
さらに、私が始めた個人事業も、夫の仕事と同じ「仕事」として扱われていない。
そのことに、私は強い違和感を覚えました。
これは単なる夫婦げんかではなく、もっと根の深いものなのではないか。
母親の労働が軽く見られる構造。
女性が家庭内で担うものが、当然のように無償化される構造。
そして、母親になった人の仕事や人生が、どこかで二番目に置かれてしまう構造。
その一部を、自分の暮らしの中で見たような気がしました。
授乳が終わったとき、女性から少し離れられた気がした
私にとって、妊娠・出産・授乳は、とても大きな出来事でした。
双子を妊娠し、出産した時点で、私は「この家族でこれ以上子どもを産むことはないだろう」と思いました。
そして産後3ヶ月ほどで、双子が母乳を飲まなくなり、ミルクに切り替えました。
そのとき、私は不思議な感覚になりました。
「ああ、もうこの身体を使って、女性としての役割を果たすことはないんだ」
そう思ったのです。
妊娠や出産は、子宮がある身体だからできたことでした。
母乳を与えることも、私の身体だからできたことでした。
そして私は、その出来事を通して、自分の精神と身体のあいだに距離があることを強く感じました。
私は、この身体を持っている。
この身体で妊娠し、出産し、授乳した。
でも、精神の部分では、自分を女性だと思っていない。
だからこそ、授乳が終わったとき、どこかで「女性の役割が終わった」と感じたのだと思います。
身体が変わったわけではありません。
戸籍が変わったわけでもありません。
外見だけで判断しようと思ったら、私はきっと「女性」に見えるでしょう。
それでも、自分の中では何かが大きく変わったのです。
身体に貼られていた「女性」という名札が剥がれて、本当のラベルが現れたような感覚でした。
そこから初めて、私は自分の精神面に向き合えるようになりました。
「母親」という言葉が、まだしっくりこない
私は今でも、「母親」という言葉の定義が、自分の中でしっくりきていません。
身体的な性別が女性の親が、母親。
一般的には、そう説明されるのかもしれません。
でも、その言葉には、あまりにも多くの社会的な前提がくっついているように感じます。
母親なら、家事育児をする。
母親なら、子どもの感情面を支える。
母親なら、家庭を優先する。
母親なら、子どもに女性らしさを伝える。
母親なら、自分のことは後回しにする。
本当は、そんなふうに決まっているわけではないはずです。
母親だからといって、子どもに女性らしさを教えなければいけないわけではありません。
母親だからといって、家事育児を一人で背負わなければいけないわけでもありません。
母親だからといって、自分の仕事や人生を二番目にしなければいけないわけでもありません。
それでも、社会の中にはまだ、「母親」という言葉を通して、女性役割を引き受けさせる空気が残っている。
私はそこに、ずっと違和感があるのだと思います。
男性になりたいわけではない。でも、女性として決めつけられるのもしんどい
私は、男性になりたいわけではありません。
でも、女性として扱われることがしんどい。
特に、母親であることによって、女性であることまで強調されるのが苦しい。
この感覚は、とても言葉にしにくいものです。
「女性が嫌い」という話ではありません。
「母親であることが嫌だ」という話でもありません。
「子どもを産んだことを後悔している」という話でもありません。
そうではなくて、私という人間を見ないまま、身体や役割だけを見て、“女性”“母親”“ママ”という場所に押し込められることが苦しいという感覚です。
私は、子どもたちの親です。
日々、子どもたちと暮らし、育てています。
でも、そのことと、私が女性として生きることは、同じではありません。
親であること。
母親と呼ばれること。
女性として扱われること。
家事育児を担うこと。
それらが、社会の中であまりにも自然に結びつけられている。
その結びつきに気づいたとき、私はようやく、自分のしんどさの正体が少し見えた気がしました。
ラベルは、答えではなく、自分を見つめるための仮置きでいい
ノンバイナリー。
Xジェンダー。
無性。
こうした言葉に出会ったことで、私は自分の過去や今の感覚を少しずつ読み解けるようになりました。
小さい頃からあった「自分は中性っぽい」という感覚。
女性として扱われることへの居心地の悪さ。
母親という言葉へのひっかかり。
授乳が終わったときに感じた、女性役割から離れられたような感覚。
それらは、言葉を知らなかった頃には、ただの違和感でした。
でも、言葉を知ることで、ようやく解釈できるようになりました。
もちろん、ラベルがすべての答えになるわけではありません。
一度つけたラベルを、一生変えてはいけないわけでもありません。
むしろ、ラベルは仮置きでいいのだと思います。
今の自分を少し楽にするための言葉。
過去の自分を責めないための言葉。
自分の違和感を、なかったことにしないための言葉。
そのくらいの距離感で、持っていてもいいのだと思います。
「ママ」が苦手でも、親であることはできる
私は、「ママ」と呼ばれることが苦手です。
「お母さん」という言葉にも、まだ少し身構えてしまいます。
でも、だからといって、子どもたちを大切に思っていないわけではありません。
親であることと、母親らしくあることは、同じではない。
子どもを大切にすることと、女性役割を引き受けることも、同じではない。
私は、私のままで、子どもたちのそばにいたい。
女性らしさを教えるためではなく、
母親らしさを演じるためでもなく、
ただ、一人の人間として、子どもたちと関わっていきたい。
そして、子どもたちにも、
誰かに決められた役割の中に、自分を押し込めなくてもいい。
「女の子だから」「男の子だから」「母親だから」「父親だから」ではなく、
自分がどう感じるのかを大切にしていいと伝えていきたい。
私自身がまだ、その途中にいます。
母親という言葉もしっくりこない。
女性という言葉もしっくりこない。
でも、男性になりたいわけでもない。
その曖昧な場所に立ったまま、私は今日も親をしています。
答えが出ていなくても、子どもと暮らす日々は続いていく。
違和感を抱えたままでも、ごはんを作り、洗濯をし、保育園の準備をし、泣いている子を抱きしめる。
そのたびに思います。
私は「母親らしい母親」にはなれないかもしれない。
でも、私として子どもたちのそばにいることはできる。
今は、それでいいんじゃないかと。

