小さい頃、私は「王子様とお姫様が幸せに暮らしました」というストーリーが、この世界の「普通」だと思っていました。
テレビドラマを見ても、アニメを見ても、映画を見ても——ほぼすべてのコンテンツが、男性と女性が恋愛して、結婚して、幸せになる、という物語で成り立っていた。
そして私は、それを「面白いストーリー」として何の疑問も持たずに受け入れていました。
その時点では、違和感すら感じていなかった。
自分に置き換えた時に「ピンと来なかった」
でも、ある時から違和感が生まれました。
自分に置き換えた時のことです。
ドラマの主人公のように、男性と恋愛して、愛情が深まっていって——そういう物語が、本当に自分の人生なのか?
男性と向き合う時に、あのドラマのような感情を感じるのか?
それとも、女性と?
考えてみると、どちらも「ピンとこない」という感覚がありました。
後になって気づくのは、それがセクシュアリティの違和感だったということ。
ノンバイナリー、アセクシュアルという言葉を知るずっと前から、私の中には「これは誰かの物語で、私ではない」という感覚があったんです。
「普通」に合わせるために、何を隠していたか
私が隠してきたことはたくさんあります。
性行為について、世の中の雰囲気では「愛情の深化」「幸せの形」とされる。
でも私にとっては、それは幸せを感じたり、愛情が深まるイベントではなかった。
女性らしさについても、本当は興味がなかった。
服装、メイク、男性にモテることへの欲望——それらは、「普通の女性」という枠に自分を無理やり合わせるために、演じていたものでした。
そして最大のもの——親孝行です。
親孝行とは何か。
それは、結婚して、子どもを持つこと。
そう言い聞かせてきました。
親から強制されたのではなく、社会が「当たり前」として示すそのモデルを、自分自身に言い聞かせていたんです。
子どもを産むまで。ノンバイナリーを自覚するまで。アセクシュアルという言葉を知るまで。
ずっと、その「普通」を疑わなかった。
過去の親孝行エピソードについてこちらの記事で書いています↓

「普通」を求めてくるのは、誰か
中学校の時、親友がいました。
常に好きな男の子がいて、その子のことで相談してくる恋愛体質の子でした。
今、もし私がセクシュアリティの話をしたら、理解してもらえないんだろうな、と思います。
その子が「普通」として語る恋愛に、私はずっと「これは私じゃない」という感覚を抱いていました。
身近な「普通の人」を通じて、どうやって振る舞えばいいのか、隠れられるのか、そこに迷うことはありませんでした。
そして今は、世の中を見ると私たちに提供されるコンテンツにも多様化が進みました。
男性同士、女性同士の恋愛ドラマも増えた。
ドラマも、アニメも、リアリティショーも。
でも、もっと欲しい。もっといろんな人が出てきて、いろんな人が幸せになるストーリーが。
今はまだ、「恋愛が普遍的である」そこに性別は関係ない、そういう新しい「普通」ができてきたという印象です。
だから今度は、恋愛しない人も性行為を望まない人も「普通」に幸せになれる物語が欲しい。
そういうコンテンツを世の中で、自分が手を伸ばした範囲で、あまり見たことがないから。
そして私は、自分でもアセクシュアル・アロマンティックの中学生が主人公の物語を書いています。
もしご興味があったらぜひ読んでみてください^^
セクシュアリティを知ることで見えた自分
私がセクシュアリティを言語化することで、起こった最大の変化は何か。
それは、「自分が何者なのか」を本気で考えられるようになったことです。
それまでは、他人の目線、他人の期待に応えるための自分でした。
「普通の女性として」「良い姉として」「親孝行な娘として」——そういう役割を演じていた。
でも、セクシュアリティを言語化することで、初めて問うことができました。
自分は何がしたいのか。自分は何者なのか。何をしていれば楽しいのか。何が好きなのか。
それは、単なる「恋愛観の変化」ではなかったんです。
それは、自分全体の再発見でした。
人と違うことが、普通なんだ
今、もし誰かに「普通ってなんだろう?」と聞かれたら、こう答えます。
普通なんてない。むしろ、人と違うことが普通なんだ。
似ているところがあっても、おんなじ人はいない。
恋愛する人もいれば、しない人もいる。
恋愛対象も、性的指向も、ジェンダーアイデンティティも、みんな違っている。
それぞれが抱えている文化、人生経験、背景——そういったものは、SOGIだけでは語れない複雑さを持っている。
そして、それが普通なんだ。
グラデーションの中で、それぞれが異なる色で生きている。その多様性そのものが、本当の普通なんじゃないか。
社会が「普通」を求めてくる。その圧力は、私たちが「普通」を言語化できるまで、ずっと続くと思います。
だから大切なのは、その社会とどれくらい距離を置けるか。どうやって自分の居心地の良さを守るか。
完全に「普通」を手放すことはできない。
でも、社会の「普通」と、自分の普通のズレを認識することはできる。
その認識の中で、私は今、グラデーションの中の一つの色として、生きています。
その生き方が、その色が、もっと当たり前になる世の中になりますように。
あなたは、あなたのままでいい。

