こんにちは。
3児の親であり、ノンバイナリー/Xジェンダーのユウです。
昔、かなり乙女ゲームにハマっていた時期がありました。
主に大学生から社会人になりたての頃。
だいたい5年くらいの間、いろいろな乙女ゲームをダウンロードして、同時に3つくらい並行してプレイしていたこともありました。
当時の私は、ただ「恋愛を攻略する感覚が好きなんだ」と思っていました。
年上キャラ。
知的なキャラ。
ツンデレなキャラ。
天才系のキャラ。
そういうキャラクターを攻略して、エンディングまでたどり着く。
それが楽しかった。
でも今になって振り返ると、少し違う見え方をしています。
私は本当に、乙女ゲームで「女性として愛される体験」を楽しんでいたのか。
もしかしたら私は、
“女性として愛されたい”のではなく、
“女性ではない自分”として、人に好かれる感覚を探していたのかもしれません。
乙女ゲームにハマっていた時期
私が乙女ゲームをよくやっていたのは、大学生から社会人になった頃でした。
ちょうどその時期は、周りから恋愛の話を聞かれることも多かったように思います。
「彼氏いるの?」
「好きな人はいないの?」
「恋バナしようよ」
そんな会話が、当たり前のように飛び交う時期でした。
でも私は、その空気が少ししんどかった。
ただ恋愛の話をするのが苦手だった、というだけではありません。
今思うと、しんどかったのは、
「女性として、誰か男性を好きになっている私」
という形で、そういう輪の中に参加しなければいけないことだったのだと思います。
周りが求めている恋バナの中には、だいたい前提があります。
私は女性である。
男性を好きになる。
女性として、男性にどう思われているかを気にする。
男性に選ばれることを喜ぶ。
でも、その前提そのものに、私はうまく乗れなかったのだと思います。
一方で、乙女ゲームの中では、現実とは違うかたちで関係性を楽しむことができました。
画面の中のキャラクターと会話をして、選択肢を選び、少しずつ距離を縮めていく。
その過程には、現実の恋愛とは違う安心感がありました。
好きだったのは、年上・知的・ツンデレ・天才系キャラ
私がよく攻略していたのは、年上キャラや知的なキャラ、ツンデレなキャラ、天才系のキャラでした。
今思うと、わかりやすく「優しくて甘い人」よりも、少し距離がある人に惹かれていた気がします。
最初から好意を向けてくるキャラというより、
どこか壁があって、
簡単には心を開かなくて、
でも少しずつ本音や弱さを見せてくれる人。
そういうキャラを攻略するのが好きでした。
もちろん、見た目が好みだったとか、セリフがよかったとか、そういう部分もあったと思います。
でもそれ以上に、私はたぶん、
「どうしたらこの人と信頼関係を築けるのか」
というところを楽しんでいたのだと思います。
恋愛そのものというより、関係性の変化。
相手が少しずつこちらを信頼してくれる過程。
普段は見せない顔を、自分にだけ見せてくれる感じ。
そこに惹かれていたのかもしれません。
つまり私にとって乙女ゲームは、単なる恋愛ゲームというより、
“信頼関係を築くゲーム”に近かったのです。
私は主人公の女の子としてプレイしていなかった
乙女ゲームの主人公は、多くの場合、女性として設定されています。
でも私は、自分がその「女の子主人公」になりきっていた感覚が、あまりありませんでした。
むしろ今振り返ると、私は主人公を、性別不詳の存在として見ていたような気がします。
あるいは、男性寄りの立場。
もっと言えば、
「自分が男性キャラになって、他の男性キャラを攻略している」
ような感覚に近かったのかもしれません。
もちろん、ゲーム上の設定では主人公は女の子です。
でも私の中では、その設定をあまり強く受け取っていなかった。
主人公が女性であることよりも、
目の前のキャラクターとどう関係性を築いていくかのほうが大事だったのです。
だから、乙女ゲームをしていたからといって、私が「女性として男性に愛されたい」と感じていたわけではなかったのだと思います。
むしろ、女性という枠から少し離れた場所で、男性キャラと関係性を築くことができる。
そこに安心感があったのかもしれません。
現実では難しい関係性を、ゲームの中で完了させていた
現実では、男性から男性として、あるいは性別不詳の存在として見てもらうことは、私にとって簡単ではありません。
特に当時は、自分の性別について今ほど言語化できていたわけではありません。
「私は女性ではない存在として見てほしい」
「でも、男性そのものとも少し違う気がする」
「そのうえで、人として親密になりたい」
そんな感覚を、現実の誰かに説明するのはとても難しかったと思います。
そもそも、自分でもはっきり言葉にできていなかったのです。
でも乙女ゲームの中では、それを説明しなくてもよかった。
主人公の性別に少し違和感があっても、私は自分の中でその設定をぼかすことができました。
画面の中なら、現実の身体や性別の見られ方から少し自由になれたのです。
そして、キャラクターとの関係性は進んでいきます。
最初は距離があった相手が、少しずつ心を開いてくれる。
本音を見せてくれる。
自分を特別な存在として扱ってくれる。
エンディングまでたどり着く。
それは、現実ではなかなか成立させにくい関係性を、一度ちゃんと完了できる体験だったのかもしれません。
だから私は、1人攻略し終わると、
「よし、次の人を攻略しよう」
と思っていました。
でも、だいたい2人くらい攻略すると飽きてしまう。
それも今思うと、全キャラとの恋愛を味わいたかったというより、
自分が求めていた関係性の型を何度か確認できたら、満足していたのかもしれません。
“女性として愛されたい”わけじゃなかった
この記事を書きながら、一番しっくりきているのはこの感覚です。
私は、乙女ゲームで「女性として愛されたい」と思っていたわけではなかった。
本当は、
“女性ではない自分”として、
人として、
特別に信頼されたかった。
そういう願いが、ずっとあったのかもしれません。
男性から、女性として見られるのではなく。
でも、完全に同性の友人としてだけ見られるのとも少し違う。
自分の性別を決めつけられないまま、
一人の人間として、
深く信頼されたい。
それは現実ではとても難しい願いでした。
相手が自分をどう見ているのか。
自分はどう見られたいのか。
恋愛なのか、友情なのか。
現実の関係性には、考えなければいけないことがたくさんあります。
でもゲームの中では、その複雑さを少し横に置くことができた。
画面の中だからこそ、恋愛的な感覚を持てたのかもしれません。
現実の人間関係では難しい距離感も、創作の中なら安全に味わえたのだと思います。
フィクトロマンティック的な感覚もあったのかもしれない
今振り返ると、私の乙女ゲームへのハマり方には、フィクトロマンティック的な感覚もあったのかもしれません。
フィクトロマンティックとは、一般的に、創作上のキャラクターに恋愛的な惹かれを感じるあり方として使われることがある言葉です。フィクトセクシュアルやフィクトロマンティックなどの言葉は、創作上のキャラクターへの性的・恋愛的な惹かれを表す文脈で語られることがあります。
もちろん、私が当時その言葉を知っていたわけではありません。
それに、今の私がはっきりと「私はフィクトロマンティックです」と断定したいわけでもありません。
ただ、画面の中のキャラクターだからこそ、恋愛的な感覚を持てた。
現実の人に対しては難しかった感覚が、創作の中では自然に生まれることがあった。
そう考えると、この言葉が少し近くにあるような気がします。
現実の恋愛が苦手だからといって、何も感じないわけではない。
恋愛感情がわからないからといって、物語の中の関係性に心が動かないわけでもない。
私の中には、たぶんそういう複雑さがありました。
ツイステがしっくりきた理由
その後、私の中でかなりしっくりきたゲームがあります。
『ディズニー ツイステッドワンダーランド』です。
このゲームでは、プレイヤーは主人公のデフォルトの名前が「ユウ」なんですよね。
これが、私にとってはかなり大きかった笑
偶然とはいえ、自分の名前と同じ響きの主人公が、男性キャラばかりの学校で生活していく。
しかも、恋愛要素は全くなくて、友情や信頼関係を育んでいくようなストーリー展開。
これが、とても心地よかったのです。
乙女ゲームでは、主人公が女性であることにどこか違和感がありました。
でもツイステでは、主人公の性別を強く意識しなくてもプレイできる感覚がありました。
美しいキャラばかりの世界に、性別をはっきり決めきらないまま入っていく。
そこで、恋愛ではなく、関係性を築いていく。
もしかすると私は、ずっとこういう物語を求めていたのかもしれません。
女性として愛される物語ではなく、
女性ではない自分として、関係性を築いていく物語。
だからツイステは、今までで一番長く続いているゲームなのだと思います。
好きだったものは、自己理解の入口だった
昔ハマっていたものを振り返ると、思わぬところに自分の感覚が隠れていることがあります。
当時はただ、
「私は乙女ゲームが好きなんだ」
と思っていました。
でも今振り返ると、その中にはいくつものヒントがありました。
女性主人公としてプレイすることへの違和感。
年上や知的なキャラ、ツンデレや天才系のキャラに惹かれていたこと。
甘い恋愛よりも、信頼関係が築かれていく過程が好きだったこと。
現実では難しい関係性を、ゲームの中で完了させていたこと。
画面の中だからこそ、恋愛的な感覚を持てたかもしれないこと。
それらをつなげていくと、見えてくるものがあります。
私は、女性として愛されたかったのではない。
“女性ではない自分”として、人に好かれたかった。
たぶん、それが一番近いのだと思います。
その時から、自分でもまだ言葉にできなかった願いを、預けていた場所だったのかもしれません。
あの頃の私は、画面の中で、
現実ではうまく形にできない関係性を探していました。
女性としてではなく。
でも、誰かにとって特別な存在として。
性別を決めつけられないまま、
人として、深く信頼されること。
それを、乙女ゲームの中で少しだけ叶えていたのだと思います。

