昨日、子どもたちがお風呂の壁を、楽しそうにゴシゴシとこすっていました。
お風呂に置いてあった掃除用のスポンジやブラシを手に持って、何人かで並んで、ひたすらゴシゴシ。
これまでの私なら、
「もういいから、出るよ」
と言って、さっさと切り上げさせていたと思います。
でも昨日は、少し違いました。
子どもたちの姿を見ながら、
「この子たち、掃除をしているんだ」
「しかも、遊びとして楽しんでいるんだ」
と思ったのです。
私にとって掃除は「やらなければならないこと」だった
最近は、自宅で一人、ワンオペで子どもたちを見る機会が増えています。
少しずつ一人でも回せるようになってきたものの、夜のお風呂まで終える頃には、できるだけ早く次へ進みたい気持ちになります。
子どもを拭いて、着替えさせて、水分を取らせて、歯を磨いて、寝る準備をする。
まだまだ、やることはたくさんあります。
だから以前の私は、お風呂で遊び続ける子どもたちを見ると、つい急かしていました。
しかも、私にとって掃除は、あまりやりたくないけれど、誰かがやらなければならないもの。
毎日のノルマのような感覚がありました。
だから無意識に、
「そんなこと、子どもがやらなくていい」
と思っていたのです。
私が嫌いだからといって、子どもも嫌いとは限らない
でも、目の前の子どもたちは、誰かに命じられたわけではありません。
自分たちでスポンジやブラシを手に取り、楽しそうに壁をこすっていました。
そのとき、はっとしました。
掃除を嫌なものだと思っているのは、私です。
子どもたちが同じように感じているとは限りません。
「私だったら嫌だ」
という気持ちと、
「この子たちは今、何を感じているのか」
は、別のものです。
今回は、その二つの間にきちんと境界線を引けた気がしました。
「手伝わせている」のではなく、「やってみたい」
子どもが家事をしていると、私はどこかで罪悪感を抱いていました。
自分が楽をするために、子どもを手伝わせているような気がしていたのです。
でも昨日の子どもたちは、少なくとも「手伝わされている」ようには見えませんでした。
親がやっていることを真似してみたい。
大人と同じ道具を使ってみたい。
水のある場所で、ゴシゴシしてみたい。
子どもたちは、ただ遊んでいたのだと思います。
もちろん、壁が本当にきれいになったかどうかはわかりません。
でも、それは今のところ、それほど大事ではありません。
「やってみたい」と思ったことを、自分の手でやってみる。
その体験そのものが、子どもにとっては楽しくて、きっと貴重なものだからです。
子どもにとって、毎日の家事は新しい体験
上の子は最近、私がしていることを何でも真似したがります。
包丁で食材を切ることも、少しずつ練習しています。
食器を洗いたいと言ったときには、一緒に流し台に立ち、スポンジでお鍋を洗いました。
親にとっては、何度も繰り返してきた日常の作業です。
でも、子どもにとっては初めてに近いことばかり。
一つひとつが遊びであり、挑戦であり、大人の世界に少し近づく体験なのだと思います。
一緒にやれば時間がかかります。
水が飛び散ったり、かえって片づけが増えたりするかもしれません。
忙しい日は、付き合えないこともあると思います。
それでも、余裕のあるときに少しだけでも「やってみたい」を受け止められたら、そんなふうに思いました。。
子ども同士のやり取りにも、先回りしていた
考えてみると、私は子ども同士のやり取りにも、よく先回りしていました。
片方がもう片方にちょっかいを出している。
そんな場面を見ると、
「やめてください」
「叩いちゃダメです」
と、すぐに注意したくなります。
もちろん、本当に「嫌だよ」と言って喧嘩になることもたくさんあります。
危ないことをしていたり、片方が嫌がっていたりするなら、大人が止める必要もあります。
でも、よく見てみると、片方がちょっかいを出しているのに、もう片方はまったく気にしていないこともあります。
大人の目には「やめさせたほうがいい行為」に見えても、本人たちの間では、それが遊びとして成立しているのです。
以前の私は、そんな場面にも、大人の感覚で「それは嫌なはず」と決めつけていたような気がします。
注意する前に、二人の間にあるものを見る
最近は、すぐに口を出す前に、少しだけ様子を見てもいいと思えるようになってきました。
どんな表情をしているか。
声の調子はどうか。
やられている側は本当に嫌そうなのか。
それとも、気にせず遊び続けているのか。
子どもたちも成長し、少しずつ手加減を覚えてきました。
何をしたら相手が怒るのか。
どこまでやると大人に止められるのか。
これまでの経験から、子どもたちなりに学んでいます。
その上で、今はやるのか、やらないのかを、自分で選び始めているように見えます。
毎日見ている親だからこそ、その変化もなんとなくわかるようになってきました。
だから、危険がなく、誰も嫌がっていないときは、親がすぐに正解を持ち込まなくてもいい。
子ども同士が相手の反応を見て、距離感を試し、関係をつくっていく時間を、もう少し守ってみたいと思うようになりました。
見守ることは、何もしないことではない
「干渉しない」と言うと、何も見ずに放っておくようにも聞こえます。
でも、私が増やしたいのは、子どもを見ない時間ではありません。
むしろ、すぐに注意する代わりに、よく見る時間です。
今は楽しんでいる。
今は少し嫌そう。
これは二人で解決できそう。
これは大人が止めたほうがいい。
そんなふうに、表情や声、二人の間に流れている空気を見ながら、必要なときに動ける距離にいる。
見守ることは、放置することではなく、口を出さずに観察することなのだと思います。
親が先回りして止めなければ、子どもは相手の反応を見ることができます。
「これは大丈夫だった」
「これは嫌だったんだ」
「次は少し弱くしてみよう」
そんなことを、子どもたちは子どもたちなりに覚えていくのかもしれません。
私が子どもの頃とは違う
私が子どもに家事をさせることへ罪悪感を持つのには、理由があります。
私は小さい頃から、いろいろなことを頼まれてきました。
自分がやりたいかどうかにかかわらず、嫌でもやらなければならないことがたくさんありました。
家事、妹の世話、送り迎え。
だから私は、子どもに何かを任せることを、
「負担を押しつけること」
のように感じていたのだと思います。
でも、私の子ども時代と、今の子どもたちの状況は同じではありません。
私は、やりたくなくても頼まれていました。
今、目の前にいる子どもは、自分から「やりたい」と言っています。
過去の私が嫌だったからといって、今の子どもも嫌なはずだと決めつけなくていい。
自分の古い記憶と、目の前の子どもの気持ちを分けて考える。
それも、親子の間に境界線を引くということなのだと思います。
家事を、誰か一人が背負わない家にしたい
子どもが家事を楽しんでいる姿を見ながら、私は少し希望を感じました。
もし家事を、
「ユウがやるもの」
「誰か一人が我慢して背負うもの」
ではなく、
「家族みんなで暮らすために、みんなでやるもの」
として経験してもらえたら。
家事との関係は、私が子どもの頃に感じていたものとは違う形になるかもしれません。
私はこれまで、家事を楽しくないもの、やらされるものとして抱え込んできました。
でも、楽しむ方法もある。
遊びから始める方法もある。
誰か一人で背負わずに、みんなでやる方法もある。
そんなことを、子どもたちが教えてくれました。
お風呂掃除を止めずに見ていられたことは、家事についての気づきだけではありませんでした。
親の私が「きっと嫌なはず」「これは止めるべき」と先に決めるのではなく、目の前の子どもが本当にどう感じているのかを見る。
子ども同士の間に何が起きているのかを、まず観察する。
そんな時間を、これから少しずつ増やしていきたいと思います。
昨日、子どもたちがお風呂の壁をどれだけきれいにしてくれたかは、正直わかりません。
でも、私の中にこびりついていた、
「家事は嫌なもの」
「子どもにさせてはいけないもの」
という思い込みは、綺麗に剥がれ落ちた気がします。
そして私の中にあった、
「親がすぐに止めなければ」
という思い込みも。
止める前に、見る。
子どもたちが自分で選び、関係をつくる時間を、必要なときに手を伸ばせる場所から見守る。
今の私が覚えたいのは、そんな親としての距離感です。

