家族旅行の話で感じたモヤモヤ
シルバーウィークに実家家族で旅行へ行こうという話になりました。
最初は私も子どもたちも一緒に行く流れでした。
でも私は、父なら後から「子ども連れは嫌だ」と言う可能性があると思い、事前に確認してもらうようお願いしていました。
結果は予想通りでした。
父は「連れて行きたくない」という返事。
そこは正直、「やっぱりそうだったか」という気持ちでした。
私が本当にモヤモヤしたのは、その後の家族の反応です。
「説得できなくてごめんね。」
そんな形で話が終わってしまいました。
私は「それなら最初から話に巻き込まないでほしかった」と感じました。
旅行に行けなかったことよりも、「もしこうなったら、私はどう感じるだろう」という視点が、最初からほとんど共有されていなかったことが悲しかったのです。
私は「誰か」ではなく、「それぞれ」の立場を想像する
今回の出来事を振り返っていて、改めて気づいたことがありました。
私は何かを決めるとき、その場にいる人それぞれの立場や背景を、ある程度想像しながら考えています。
例えば、
「この人はどう受け取るだろう。」
「こう言ったら、あの人はどう感じるだろう。」
「この決め方だと、困る人はいないだろうか。」
そんなふうに、一人ひとりの視点を頭の中で思い浮かべながら話を進めることが多いのです。
もちろん、実際に相手がどう思うかは本人にしか分かりません。
でも、自分一人の視点だけではなく、複数の立場を想像しながら考えようとしています。
一方で今回、家族は「きっと大丈夫だろう」という希望を前提に話を進めていました。
その見え方の違いを、とても強く感じました。
この力は、マイノリティとして生きてきた経験から育ったのかもしれない
私はこれまで、自分自身の性自認やセクシュアリティについて悩み、マイノリティとして孤独を感じる経験をしてきました。
「自分だけが違う。」
「自分だけ置いていかれるかもしれない。」
そんな経験を重ねてきたからこそ、
「自分とは違う立場の人は、どう感じるだろう。」
と考えることが自然になったのかもしれません。
もちろん、これは私の一つの仮説です。
マイノリティだからといって全員がそうなるわけではありませんし、マイノリティではなくても自然に相手の立場を想像できる人はたくさんいます。
それでも今回、
私が普段から複数の立場を思い浮かべながら考える理由の一つには、この経験があるのかもしれないと感じました。
「相手の立場を想像すること」は、誰のためでもある
私は誰かを特別扱いしたいわけではありません。
ただ、何かを決めるときに、
「この言葉を聞いたら、この人はどう感じるだろう。」
「この決定で困る人はいないだろうか。」
そんなふうに一度だけでも立ち止まって考えられる人が増えたら、もっと生きやすい社会になるのではないかと思っています。
家族でも、友人でも、職場でも、学校でも。
相手の背景や立場は、自分には見えていないことがたくさんあります。
だからこそ、自分の視点だけで判断するのではなく、「他の人にはどう見えているのだろう」と想像することを、私はこれからも大切にしていきたいと思いました。

