「キャラクターに惹かれる自分は、ただのオタクなのかな」
そんなふうに思ったことがあります。
私は小さい頃から、アニメや漫画、本に出てくる登場人物に強く心を動かされてきました。
あるキャラクターに対しては、ただ「好き」という言葉では足りないほど、深い愛着を感じたこともあります。
気に入っていたキャラクターが物語の中で死に向かっていく場面を見たとき、声を上げて泣いてしまったこともありました。
まるで、大切な友人の一人が亡くなってしまったような感覚でした。
でも、その気持ちが恋愛なのか、友情なのか、推し活なのか、私にはよくわかりませんでした。
そんなときに出会ったのが、フィクトセクシュアル/フィクトロマンティックという言葉でした。
この記事では、フィクトセクシュアルやフィクトロマンティックの意味を簡単に紹介しながら、私自身がキャラクターに抱いてきた「好き」について考えてみたいと思います。
フィクトセクシュアル/フィクトロマンティックとは
フィクトセクシュアルとは、主に架空のキャラクターに性的な惹かれを感じるあり方として語られる言葉です。
フィクトロマンティックは、恋愛指向を表す言葉で、架空のキャラクターに恋愛的な惹かれを感じるあり方として使われることがあります。
JobRainbowでは、フィクトロマンティックについて、アニメや漫画の登場人物など、つくられたキャラクターを愛するセクシュアリティとして紹介されています。
英語圏でも、fictosexuality や fictoromanticism は、架空のキャラクターへの性的・恋愛的な惹かれを表す言葉として説明されています。
ただし、ここで大切なのは、キャラクターを好きになる人すべてがフィクトセクシュアル/フィクトロマンティックだと決まるわけではないということです。
「推しがいる」
「キャラクターが好き」
「二次元に惹かれることがある」
そういう経験があるからといって、必ず特定のラベルを使わなければいけないわけではありません。
その言葉がしっくりくる人もいれば、「近いけれど、完全には違うかもしれない」と感じる人もいる。
私自身も、フィクトセクシュアル/フィクトロマンティックに完全に当てはまると断定しているわけではありません。
ただ、この言葉を知ったことで、過去にキャラクターへ抱いてきた愛情を、少し違う角度から見つめられるようになりました。
私がこの言葉を知ったきっかけ
私がフィクトセクシュアル/フィクトロマンティックという言葉を知ったのは、セクシュアリティ診断を受けたときでした。
JobRainbowさんが提供している無料の診断を受けたときに、その言葉が出てきたのです。
そのときは、「ほう、こんなものがあるんですね」と脳内で呟いていました。
「これだ!」と飛びついたわけではありません。
でも、振り返ってみると、私は小さい頃からずっと、アニメや漫画、本に出てくる登場人物に強く心を動かされてきました。
その“入れ込む気持ち”の中には、もしかしたら恋愛的な要素も含まれていたのかもしれない。
そう思ったのが、最初のきっかけでした。
乙女ゲームは「恋愛」より人間関係シミュレーションだった
フィクトロマンティックという言葉を考えるとき、乙女ゲームの話も思い浮かびます。
ただ、私は乙女ゲームのキャラクターにものすごく恋をしてハマった、という経験はあまりありません。
どちらかというと、乙女ゲームは人間関係のシミュレーションとして楽しんでいました。
この性格の人物だったら、どういう振る舞いをすれば好感度が上がるのか。
この環境で育って、この性格になった人なら、どんな言葉をかけると関係が続きやすいのか。
そういうことを考えるのが楽しかったのです。
キャラクターに恋をしているというより、
相手の背景や性格を読み解いて、どう関わるかを考えている感覚でした。
攻略というより、観察。
恋愛というより、分析。
今思うと、そこにも私らしい「好き」の形が出ていたのかもしれません。
乙女ゲームで感じた自分のセクシュアリティについてはこちらで詳しく書いています↓

私が強く惹かれるのは、知性と個性のあるキャラクター
乙女ゲームに限らず、私が好きになりやすいキャラクターには、ある程度共通点があります。
まず、すごく頭がいいキャラクターが好きです。
いわゆる天才型。
普通の人とは少し違う視点を持っていて、独特の個性がある。
ちょっと変わっていて、周囲から簡単には理解されない。
そういうキャラクターに惹かれることが多いです。
ただかっこいいから好き、というより、
その人がどう考えているのかを知りたくなる。
なぜその言葉を言ったのか。
なぜその行動をしたのか。
その背景にはどんな孤独や信念があるのか。
そういう部分に触れたくなるのです。
この感覚は、私が以前から感じていたサピオロマンティック的な惹かれ、つまり知性への惹かれにも近いのかもしれません。
サピオロマンティックについてはこちらの記事で書いています↓
特定のキャラクターに対して感じた「心を開いた」という感覚
私にとって一番不思議だったのは、『DEATH NOTE』のLというキャラクターに対して感じた気持ちでした。
中学生の時、Lというキャラクターが好きで、憧れやこうなりたい!という気持ちを抱いていました。
特に私が強く惹かれたのは、原作のLそのものというより、『L change the WorLd』という、映画『DEATH NOTE』のスピンオフ作品をノベライズした、完全オリジナルストーリーの小説に登場するLに特に惹かれていました。
そこにいるLは、天才で、孤独で、常に甘いものを食べているキャラクター。
そこまでは原作と同じなのですが、
このストーリーでは、原作ではあまり見たことがない、Lと少年少女との交流が描かれます。
そしてLはある事件から子どもたちを守らなければいけない状況になるのです。
私が特に心を動かされたのは、その少女との対話でした。
Lは大人で、相手は少女。
それでも、上からものを言うのではなく、一人の人間として、丁寧に、対等に話す。
その姿に、私は強く惹かれました。
そして、そのキャラクターに対して、私は「好きになった」というより、初めて大人を相手に心を開いたという感覚がありました。
キャラクターへの喪失感で、声を上げて泣いた
その物語の中で、Lは死に向かっていきます。
直接的な死の描写があるわけではありません。
でも、その先にあるものを感じたとき、私は声を上げて泣きました。
キャラクターへの喪失感で、そんなふうに泣いたのは初めてでした。
それは、まるで大切な友人の一人が亡くなってしまったような感覚でした。
現実には存在しない人なのに。
本の中、映画の中、物語の中にいる人なのに。
それでも、その人がいなくなることが、こんなにも苦しい。
その感覚は、私にとってとても不思議で、でも確かに本物でした。
私はLの恋人になりたかったのかと聞かれると、少し違います。
彼のよき理解者でありたい。
その世界に入って、一緒に生きてみたい。
そんな感覚が、一番近かったように思います。
「好きになりますよ」に感じた、恋愛感情への違和感
DEATH NOTEの中で、Lがミサミサというキャラクターから頬にキスをされて、
「好きになりますよ」と言う場面があります。
私はその言葉に、不思議と自分の感覚に近いものを見ました。
「好きになりますよ」という言い方には、「好きにならないこともできる」という余裕を感じたからです。
作品の中では単に駆け引きの中での一言だったのかもしれませんが、私はこの、「好きになるかならないかを決められる」という感覚に密かに共感していました。
一般的に恋愛感情は、「落ちるもの」「止められないもの」「気づいたら好きになっているもの」として語られることが多い気がします。
でも、私には少し違う感覚があります。
好きになるかどうかは、ある程度、関係性を近づけるかどうかと結びついている。
望まないなら、近づかない。
仲良くしない。
そうすれば、好きにならずにいられる。
もちろん、すべての人がそうだとは思いません。
でも私にとっては、好きになる感覚は完全にコントロール不能なものではなく、距離の取り方や関係性の作り方と関係しているように感じてきました。
今思うと、その感覚はアロマンティックやアセクシュアルに近い部分もあったのかもしれません。
アロマンティック、アセクシュアルについてはこちらの記事で詳しく解説しています↓


現実の人と違って、キャラクターは自分のペースで知ることができる
現実の人とフィクションのキャラクターで、確実に違うと感じることがあります。
それは、キャラクターは自分のペースで知ることができるということです。
作品を読めば、そのキャラクターの背景に触れられます。
セリフや行動をたどれば、性格を推測できます。
原作を読み返したり、関連作品に触れたりしながら、自分の中で少しずつ理解を深めていけます。
一方で、現実の人間関係はそうはいきません。
相手の内面を知るには、実際に話す必要があります。
質問しなければわからないこともたくさんあります。
そして、相手にも感情や期待があります。
現実の人を深く知ろうとすることは、関係性を動かすことでもあります。
でもキャラクターなら、相手の世界に踏み込みすぎずに、自分のペースで知っていくことができる。
一方的に好きだと感じて、調べて、理解して、ますます好きになっていく。
その流れが、私には気楽で性に合っている感覚がありました。
キャラクターへの「知りたい」は、恋愛なのか、友情なのか
キャラクターに対して、私はよく「もっと知りたい」と思います。
その人の背景を知りたい。
性格を知りたい。
どんな言葉を選ぶのか、どんな場面で心が動くのかを知りたい。
この「知りたい」「理解したい」という気持ちは、友達に対しても感じるものかもしれません。
でも、キャラクターに対しては、それがより強く出ることがあります。
しかもキャラクターの場合、自分が好きなだけ愛せる安心感があります。
現実の人に対して同じ熱量で情報を集めたり、性格を知ろうとしたりすると、距離感を間違えてしまうかもしれません。
相手から見れば、怖いと感じられることもあるかもしれない。
でもキャラクターに対してなら、原作を読むこと、アニメを見ること、セリフをたどること、考察することは、好きなだけできる。
調べて、理解が深まっていく。
その自分もうれしい。
そうやって私は、キャラクターへの強い愛情を育ててきたのだと思います。
推し活とフィクトロマンティック
キャラクターへの「好き」にも、いろいろな種類があります。
グッズを眺めるのが好き。
このキャラかわいい、このキャラかっこいいと友達に話せる。
私にもそういう、誰かに共有して楽しめる好きもあります。
でも、中学生時代Lに対して感じていた気持ちは、それとは少し違っていました。
私は、Lが好きだという話を、ほとんど人にしてきませんでした。
(憧れがあって、行動を真似することはあったので、家族は知っていると思いますが笑)
それは、本当に心から愛情を注いでいる感覚があって、軽く話せるものではなかったからではないか、と今になれば思います。
私の中での大切さと、外から簡単に触れられたくない感覚が、ほかの推しとはまったく違っていました。
「推し」として話せる好きと、
自分の中にしまっておきたい好き。
同じキャラクターへの好きでも、その深さや温度はひとつではありません。
フィクトロマンティックと推し活の違いを、私はまだうまく説明できません。
というより、そもそも無理に分ける必要もない気がします。
「これは推しです」
「これは恋愛です」
「これはセクシュアリティです」
そんなふうに、きれいに切り分ける必要はない。
ただ、自分の中に確かにあった愛情を、なかったことにしなくていい。
私は今、そう思っています。
キャラクターを好きになることは、心の中に大切な友人が増えること
私にとって、キャラクターを好きになることは、大切な友人が増えるような感覚に近いです。
その時代、その時期に、とても深く好きになった存在がいる。
そのキャラクターを見かけるとうれしい。
その人について考えたり、考察したりするのが楽しい。
作品では描かれなかった、その先を想像するのも楽しい。
そして、その存在が、その時期の心の支えになっていることがあります。
「このキャラクターがこんなに頑張っているんだから、自分も頑張ろう」
そう思える日があります。
「もし私が同じ世界にいたら、どんな言葉をかけてくれるだろう」
そんなことを考えて、少しだけ心が持ち直すこともあります。
キャラクターは、現実には存在しません。
でも、その存在に支えられることはあります。
だから私にとって、キャラクターへの好きは、ただの娯楽ではありませんでした。
心の中に、大切な存在が増えていくこと。
自分の中に、そっと帰れる場所ができること。
そんな感覚に近かったのだと思います。
昔は隠していた「好き」が、少しずつ言いやすくなった
私が中学生の頃は、アニメは今ほど気軽に見られるものではありませんでした。
深夜アニメを録画して、こっそり見る。
好きな作品やキャラクターがいることを、あまり知られないようにしていた時期もありました。
みんなが嵐にハマっている時に、私はこっそりアニメキャラを推していました。
「嵐の〇〇が最高」とみんなで話していると、「私はこんなふうには語れないな…」と羨ましく感じることもありました。
でも今は、動画配信サービスでアニメを気軽に見られるようになりました。
好きな作品やキャラクターを公言することへのハードルも、以前より下がってきたように感じます。
「オタク」という言葉も、昔ほど悪い意味だけでは使われなくなってきました。
それは、キャラクターへの好きについて話しやすくなったという意味では、とても大きな変化だと思います。
でも一方で、
「このキャラクターを大切な友人のように思っている」
「恋愛に近い要素もあるかもしれない」
「現実の人より、安心して好きでいられる」
という深い部分まで話すには、まだ勇気がいる人もいるかもしれません。
私自身、そうでした。
だからこそ、この記事ではあえて、その奥にある感情を書いてみたいと思いました。
キャラクターへの好きに、無理に名前をつけなくてもいい
フィクトセクシュアルやフィクトロマンティックという言葉を知るまで、私は自分がキャラクターに抱いてきた愛着や愛情が何なのか、よくわかっていませんでした。
単純に、私はオタクすぎるのかな。
推しへの思い入れが強いだけなのかな。
そんなふうに思っていました。
でも振り返ってみると、キャラクターにも、現実の人間と同じように、自分の中での大切な度合いが違っていたことに気づきました。
軽やかに好きと言えるキャラクターもいる。
友達に話せる推しもいる。
でも、自分の中にしまっておきたいほど神聖で大切な存在もいる。
その感情が「推し」なのか、
「フィクトロマンティック」なのか、
あるいは友情や尊敬や信頼なのか。
私には、まだはっきり説明できません。
その愛情を、なかったことにしなくていい
もしあなたが、
「キャラクターに惹かれる自分はおかしいのかな」
「現実の恋愛よりフィクションの方が安心する私は変なのかな」
「これは恋愛なのか、ただの推し活なのか、自分でもわからない」
と思っているなら。
すぐに、明確な答えを出さなくてもいいと思います。
そのキャラクターを大切に思ったこと。
その存在に支えられたこと。
その人のことをもっと知りたいと思ったこと。
その人がいなくなることに、胸が痛くなったこと。
それらは、あなたの中に確かにあった感情です。
恋愛なのか。
友情なのか。
推し活なのか。
セクシュアリティなのか。
名前をつけることよりも先に、その感情をなかったことにしないでいい。
私は、そう思います。
フィクトセクシュアル / フィクトロマンティックという言葉は、自分を決めつけるためのものではなく、
自分の中にあった「好き」を、少しやさしく見つめ直すためのヒントになりうる。
キャラクターへの好きが、恋愛なのか、推し活なのか、友情なのか、はっきりわからなくてもいい。
その存在に支えられたこと。
その人を大切に思ったこと。
その気持ちを大切にして欲しいと思います。
あなたは、あなたのままでいい。

