グロい。
AIと一緒に書いた原稿を読み返したとき、最初に出てきた感想がこれだった。
キモい、とも思った。
書かれているのは、たしかに私の人生だった。事実関係も大きく間違っていない。
それなのに、読んでいて吐きそうになるくらいつまらなかった。
味のないガムを、延々と噛まされているような気分だった。
私は今、AIを使って『普通の女の子になれなかった私』という長編エッセイを書いている。
これは、AIでエッセイを書く方法を教える記事ではない。
AIと一緒に本を書こうとして、思ってもみなかったところで立ち止まっている人間の制作ログである。
AIを使えば、長い文章は作れた
エッセイを書き始めたのは、三か月ほど前だったと思う。
AIにヒアリングをしてもらい、これまでの人生で起きたことを話していった。
AIは、話を整理するのがうまい。
バラバラだった出来事を時系列に並べ、似た話をまとめ、章の構成まで考えてくれる。
そうして、ペーパーバックにできそうな分量の原稿ができた。
文字数はある。章もある。見た目は本らしい。
ここまでは、かなり順調だった。
問題は、できた原稿を私自身が読んだときに起きた。
私の人生が書かれているのに、私がいなかった
原稿には、
「私はこんな経験をした」
「そのとき、こんなことがあった」
「今はこう考えている」
という情報が並んでいた。
でも、それだけだった。
自分語りが何万字も続いているのに、語っている人間の姿が見えない。
怒りも、恥ずかしさも、勘違いも、少し意地の悪い気持ちも、笑ってしまうような本音もない。
きれいに整理された「私の経歴」だけがあった。
自分について詳しく書かれているのに、そこにいるのが自分ではない。
知らない人が、私の人生を長々と説明しているようだった。
たぶん、それが「グロい」「キモい」と感じた理由だった。
でも、何が嫌なのかをうまく説明できなくて、制作は一か月ほど止まった。
ブラッシュアップして、初めて足りないものが見えた
最初は、文体の問題だと思っていた。
もっと私らしい語尾にすればいい。情景や会話を増やせばいい。比喩を入れれば、人間味が出るかもしれない。
けれど、原稿をブラッシュアップしていくうちに、問題はもっと手前にあることが分かった。
原稿に入っていたのは、「こんな体験をした」という出来事の概要だった。
その体験の途中で、本当は何を感じていたのか。
その場にどんな空気があり、何が見えていたのか。
今も妙に覚えている言葉や、小さな動作は何なのか。
後から振り返ったとき、その出来事は自分の中でどんな景色として残っているのか。
そうしたリアルな回想が、十分に言葉になっていなかった。
さらに、自分の体験を知らない人へ渡すための材料も足りなかった。
私の中では分かっている感覚でも、そのまま書いただけでは他の人に伝わらないことがある。
どんな例えなら、近い感覚を想像してもらえるのか。
どんな言葉に置き換えれば、読者が自分の経験と重ねられるのか。
そこまで考えて初めて、個人的な体験が、他の誰かにも読める文章になる。
そして、この部分こそが作家性なのかもしれないと思った。
何が起きたのかだけではなく、それをどう感じ、どう思い出し、どんな例えで人に渡すのか。
同じ出来事を書いても、ここが違えば、まったく別の作品になる。
私の原稿に足りなかったのは、読みやすくするための飾りではなかった。
作品の個性そのものが足りなかった。
AIは、話をきれいにまとめすぎる
Obsidianに残している制作ログを見返すと、AIは私が話したことを、何度も分かりやすい結論へ整えていた。
まだ迷っていることに名前をつける。
複雑な出来事を、きれいな成長物語にする。
一度の変化で、すべて解決したようにまとめる。
文章としては読みやすいのかもしれない。
でも、私はそんなにきれいに納得していない。
人間は、そんなに分かりやすく回収されない。
AIが整えた文章だけを読み続けていると、いつの間にかAIが作った解釈が、私の考えだったように見えてくる。
そこで今は、AIの文章をそのまま信用せず、私が実際にしゃべった言葉を記録した「生ログ」へ戻るようにしている。
AIが考えた結論と、私が本当に話したことを見比べる。
気の利いた言い回しが加えられていたら、本当に私が言いそうな言葉なのかを考える。
文章を整えるためにAIを使ったのに、今はAIが整えた部分を一つずつ外している。
AIに私のエッセイを書いてもらうには、差分学習が必要だった
AIに「私らしく書いて」と頼むだけでは、私の文章にはならなかった。
AIが書いた文章を私が読み、「ここは違う」と修正する。
修正前と修正後を比べて、何が違ったのかをAIに伝える。
感情が足りなかったのか。
結論をきれいにまとめすぎたのか。
私なら使わない言い回しが入っていたのか。
一般的すぎる表現によって、私の考え方や可笑しさが消えていたのか。
この差を、一つずつ学習してもらう。
一度伝えれば終わるわけではない。
別の節を書けば、また別の「私らしくない」が出てくる。そのたびに修正し、違いを言葉にして、次の文章へ反映させる。
AIが書く文章と私が書く文章の間には、どんな差があるのか。
その差を見つけ、教え続ける努力が必要だった。
この作業を繰り返すことで、私自身も初めて、自分の文章の特徴に気づいている。
私は何を大事だと思うのか。
どこを簡単にまとめられると嫌なのか。
どんな例えを使うのか。
どんな感情を、あえて結論の出ないまま残したいのか。
AIへ私らしさを教えようとする作業は、自分で自分の作家性を探す作業にもなっていた。
AIで文章を作ることと、作品を作ることは違う
AIを使えば、長い文章を作ることはできる。
構成を作り、エピソードを並べ、何万字にも増やせる。
でも、
「文章ができた」
と、
「自分が作品として出したいものができた」
は、まったく違う。
整えすぎると、本人が消える。
かといって、話したことをそのまま並べても作品にはならない。
削りすぎれば、その人にしかない部分がなくなる。文字数を増やそうとして説明を足せば、今度は水増しになる。
AIにどこまで任せ、どこから自分で引き取るのか。
私は今、その境界でずっと立ち止まっている。
2026年9月、まだ第一章を書いている
現在は、第一章を一節ずつ読み直している。
読んで「なんか違う」と感じたら、その違和感をごまかさず、AIの文章と自分の感覚の差を考える。
そして、足りないものが見つかったら、またヒアリングへ戻る。
一度取材したら執筆へ進み、そのまま完成するような一直線の作業ではなかった。
書いてみる。
違和感を見つける。
話を聞き直す。
私が修正した文章との差をAIに伝える。
そして、また書いてもらう。
今は、その繰り返しである。
これで本当に「私がいる文章」になるのかは、まだ分からない。
本が完成するかどうかも分からない。
AIでエッセイを書くのは、私が想像していたよりずっと難しかった。
今はただ、味のないガムになってしまった原稿へ、もう一度、自分という人間を戻している途中だ。

