「かわいそう」が人を傷つけるとき|人間関係のモヤモヤと境界線の話

モヤモヤした出来事があったので、少しシェアさせてください。

とあるグループLINEで、過去に共有していたアルバムを、あとから参加する人にも見られるようにするかどうか、という話になりました。

つまり、新たにグループを作るか、現行のものに加えるかという話になったのです。

そのときに出たのが、

「過去のアルバムを見られないのはかわいそうだから、招待した方がいいのでは」

という意見でした。

たしかに、その気持ちはわかります。

自分だけ見られない。
自分だけ過去のやり取りに入れない。
そう考えると、少し寂しいようにも感じます。

でも、その一方で、私は少しひっかかりました。

そのアルバムの中には、あとから参加する人には見せたくない写真がある人もいたからです。

過去の写真をさかのぼって整理する人には、それなりの負担がかかる。
そして何より、そもそも本人が本当にそのアルバムを見たいと思っているのかは、まだ確認していなかった。

そのとき、私は思いました。

「かわいそう」という言葉は、やさしさから出てくることもある。
でも、その言葉が出た瞬間に、別の誰かの負担や意思が見えにくくなることもあるのかもしれない、と。

目次

「かわいそう」と言う前に、本人の意思は確認されているのか

今回、私が一番引っかかったのは、本人に確認していない段階で「かわいそう」という言葉が使われたことでした。

もちろん、あとから参加する人が過去のアルバムを見られないことを、寂しく感じる可能性はあります。

でも、それはあくまで想像です。

本当に見たいと思っているのか。
過去のアルバムまで見られることを望んでいるのか。
そもそも、そこまで必要だと感じているのか。

それは、本人に聞いてみないとわかりません。

一方で、すでにその場には「見られたくない写真がある」という声がありました。

つまり、まだ確認していない誰かの「かわいそうかもしれない」という想像と、実際に声を上げている人の困りごとが並んでいたのです。

そのとき、私は不公平さを感じました。

なぜ、今そこにある声よりも、まだ確認していない誰かの気持ちのほうが大きく扱われるのだろう。

なぜ、実際に困っている人の負担よりも、「かわいそう」という言葉のほうが強くなってしまうのだろう。

見えにくくなっていた4つのこと

今回の出来事で、私はいくつかの存在が見えにくくなっているように感じました。

ひとつめは、アルバムを整理する人の負担です。

「見せたくない写真があるなら、自分で消せばいい」

一見すると、合理的な方法に見えるかもしれません。

でも実際には、過去の写真をさかのぼって確認し、見せたくないものを探し、削除するという作業が発生します。

それは、簡単なことではありません。

写真の量が多ければ、それだけ時間もかかります。

「これは見せてもいいのか」「これはどうだろう」と、一つひとつ判断する負担もあります。

ふたつめは、見られたくない写真がある人の気持ちです。

そもそもそのグループは、今いるメンバーだけで共有される前提だったかもしれません。

その前提があったからこそ、安心して写真を投稿できていた人もいるかもしれない。

あとから誰かが参加することによって、その安心が奪われてしまう可能性もあります。

誰かを新しく迎え入れることと、過去に共有されたものをすべて開示することは、同じではありません。

みっつめは、あとから参加する本人の意思です。

本当に本人は過去のアルバムを見たいのでしょうか。

見られないことを寂しく感じているのでしょうか。
それとも、特に気にしていないのでしょうか。

ここが確認されていないまま、「かわいそう」と決めてしまうことに、私は違和感がありました。

よっつめは、その場の空気に合わせて黙る人の存在です。

「かわいそう」と言われると、反対意見を出しにくくなります。

「でも、見せたくない写真がある」
「整理するのは大変」
「新しいグループを作ったほうがいいのでは」

そう思っていても、「かわいそうな人に冷たい人」のように見えてしまうのが怖くて、言葉を飲み込む人もいるかもしれません。

「かわいそう」という言葉は、やさしいようでいて、とても強い言葉です。

その言葉が出た瞬間に、別の声が小さくなってしまうことがあると思います。

過去にも似たような感覚があった

この出来事を見たとき、私は少しデジャヴのような感覚を覚えました。

過去にも、似たような気持ちになったことがあったからです。

以前、妊娠中につわりがとても重かった時期がありました。

特に双子を妊娠していたときは、特定の食材の匂いだけで吐き気が出てしまうほどで、自分でもどうにもできない状態でした。

周りの人は、きっと私の体を思ってくれていたのだと思います。

栄養をとってほしい。
体にいいものを食べてほしい。
妊娠中だからこそ、ちゃんと食べてほしい。

その気持ち自体は、ありがたいものでした。

けれど、当時の私には、それを受け取る余裕がありませんでした。

食べられないものをすすめられること。
匂いだけでつらくなるものが近くにあること。
やめてほしいと伝えても、なかなか状況が変わらないこと。

それが重なるうちに、私はかなり追い詰められていました。

あるとき、私は限界を感じて、かなり切実な形で「やめてほしい」と伝えました。

その伝え方は、今思えば強かったかもしれません。
周りから見れば、誰かを責めているように見えたかもしれません。

でも、当時の私にとっては、それくらいしないと届かないように感じていました。

そのときに、「それじゃあ相手がかわいそう」と言われたことがありました。

その言葉を聞いたとき、私はとても孤独を感じました。

私がつらいと感じていること。
そこまで言わざるを得なかった背景。
直接伝えても変わらなかった経緯。

そういうものが、蔑ろにされていると思ったからです。

私は誰かを責めたかったのではなく、ただ助けてほしかったのに。

本当に困っている人は誰だったのか

私は、相手をただ批判したかったわけではありません。

そこまで言わざるを得ないほど追い詰められていました。

直接伝えても変わらなかった。
自分だけではどうにもできなかった。
だから、その場で声を上げるしかなかった。

それなのに、まず出てきたのが「相手がかわいそう」という言葉だった。

その瞬間、私は思いました。

では、私は一体誰に相談すればよかったのだろう。

私が苦しいこと。
そこまで言わざるを得なかった背景。
直接言っても届かなかった経緯。

それらが全部見えないものにされて、表面的に「責められているように見える人」だけが守られているように感じました。

本当に困っている人よりも、批判されているように見える人が優先される。

その構図が、私にはとてもつらかったのです。

その出来事のあと、私は少しずつ、しんどさを家族に伝えることに慎重になっていきました。

言っても、私の苦しさより、周りの人の気持ちが先に心配されるのかもしれない。

そう思うと、言葉を飲み込んでしまうことが増えました。

「かわいそう」は、誰の目線なのか

もちろん、「かわいそう」と思う気持ちそのものを否定したいわけではありません。

誰かを気にかけること。
寂しい思いをしていないか想像すること。
傷ついていないか心配すること。

それは、やさしさから出てくるものでもあると思います。

でも、そのやさしさが一方向に向きすぎると、別の誰かの声が消えてしまうことがあります。

今回のアルバムの件でいえば、

「あとから参加する人が見られないのはかわいそう」

という視点がありました。

でも同時に、

「見せたくない写真を自分で探して消さなければならない人はかわいそうではないのか」

という問いもあります。

ただし、それもまた、私の推測に過ぎません。

だからこそ、まず確認が必要なのだと思います。

本人は本当に見たいのか。
見せたくない写真がある人は、どんな負担を感じているのか。
過去のアルバムを開示することに抵抗がある人はいないのか。
新しくグループを作るという選択肢はないのか。

「かわいそう」と感じた瞬間ほど、いったん立ち止まる必要がある。

そう思いました。

「どの問題を一番上に置くか」を間違えない

人間関係のモヤモヤは、いろいろな問題が絡み合っていることが多いです。

誰かが寂しいかもしれない。
誰かが負担を感じている。
誰かが言い出しにくい。
誰かが罪悪感を抱えている。
誰かが過去の安心を守りたいと思っている。

その全部が、同時に存在していることもあります。

だからこそ大切なのは、どの問題を一番上に置くのかを見誤らないことだと思います。

今、実際に困っている人は誰なのか。
すでに声を上げている人は誰なのか。
その人の声は、ちゃんと拾われているのか。

ここを間違えてしまうと、誰かを守っているつもりで、別の誰かを深く傷つけることがあります。

「かわいそう」という言葉は、時に問題の本質を隠してしまいます。

まるで、その言葉を出した時点で、もう結論が出たかのように見えてしまう。

でも、本当はまだ何も確認できていないこともある。

「かわいそう」と感じたなら、その感情を出発点にしてもいい。

でも、それを結論にしてはいけないと思います。

声を上げても、無視されることがある

私は、自分自身がセクシュアルマイノリティであることもあり、存在が見えないまま話が進んでいく感覚を何度も味わってきました。

そこにいるのに、いないことにされる。
困っているのに、議論の前提に入っていない。
言葉にしないと、存在ごと見落とされる。

そういう感覚です。

でも、今回あらためて衝撃だったのは、声がテーブルの上に乗ったあとでも、無視されることがあるのだと感じたことでした。

「見せたくない写真がある」

そういう声が出ている。

それでもなお、本人に確認していない「かわいそうかもしれない人」のほうが優先されることがある。

ああ、言っていても無視されることがあるんだ。

そう感じました。

これは、日常のいろいろな場面で起きているのかもしれません。

家庭でも、職場でも、友人関係でも、コミュニティでも。

誰かが勇気を出して声を上げたとき、私たちはその声をちゃんと聞けているでしょうか。

それとも、別の誰かの「かわいそう」で、その声を上書きしてしまっているのでしょうか。

子育ての中でも考えたいこと

この話は、子育てにもつながると感じています。

たとえば、子どもがきょうだいを叩いてしまったとき。

つい、

「叩いたらかわいそうでしょ」

と言ってしまうことがあります。

もちろん、叩くことを肯定したいわけではありません。
叩かれた子の痛みや悲しさを見ることは大切です。

でも、それだけで終わってしまうと、叩いた子の背景が見えなくなることもあります。

なぜ叩いたのか。
その前に何があったのか。
言葉で伝えられない困りごとがあったのか。
我慢の限界だったのか。
助けを求める方法がわからなかったのか。

子どもはまだ、自分の気持ちをうまく言葉にできないことがあります。

「叩いたらかわいそう」で終わらせるのではなく、その奥にあるものも見たい。

それは、子どもを甘やかすことではありません。

本当の問題を見つけるために、必要なことだと思うのです。

「かわいそう」と思ったときに問い直したいこと

誰かを見て「かわいそう」と思ったとき。

私は、少し気をつけたいと思いました。

今困っている人は誰だろう。
本当の問題はどこにあるんだろう。
その「かわいそう」は、誰の目線なんだろう。
その人のためと言いながら、自分の罪悪感を軽くしたいだけになっていないだろうか。
もし声を上げている人がいるなら、その人たちの声をちゃんと拾えているだろうか。

「かわいそう」という言葉は、やさしさのように見えることがあります。

でも、その言葉の中には、同情や決めつけや、自分の安心したい気持ちが混ざっていることもあるかもしれません。

もちろん、いつもそうだと言いたいわけではありません。

ただ、そういう可能性があることを、忘れないでいたいのです。

誰かの声を「かわいそう」で上書きしない人でありたい

今回の出来事を通して、私はあらためて思いました。

私自身も、誰かの声を「かわいそう」で上書きしない人でありたい。

誰かを思いやる気持ちは、大切にしたいです。

でも、その思いやりが、別の誰かの声を消してしまうことがある。
誰かを守っているつもりで、別の誰かを孤独にしてしまうことがある。
問題の本質を見誤ることで、取り返しのつかない傷を残してしまうこともある。

だからこそ、「かわいそう」と思ったときほど、いったん立ち止まりたい。

その人は本当にそれを望んでいるのか。
今、実際に困っている人は誰なのか。
すでに声を上げている人の言葉を、ちゃんと聞けているのか。

やさしさは、急ぐと誰かを置いていくことがある。

だから私は、少しゆっくりでもいいから、そこにいる人の声を一つずつ拾える人でありたいと思います。

ここまで読んでくれて、ありがとうございます。

もし今、 「誰にもわかってもらえない気持ちを、ずっと抱えてきた」 「普通を装ってきたけれど、本当の自分が置いてけぼりになっている」 そんな感覚を、少しでも持ったことがあるなら。

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