小学生の自分にやっと会えた

雷鳴が聞こえると、そこから何か新しいものが生まれるのじゃないかと思う。

恐ろしい何かがすべてを壊してしまうという不安と同時に、同じぐらいの期待感がある。

以前の私は、それを「こんな世の中が壊れてしまえばいいという願望なんだろうな」と思っていた。

でも、改めて考えてみると少し違った。

私は自然が羨ましいのだ。

どれだけ雷が暴れて停電を起こしても、地震で建物が崩れても、自然そのものを恨む人はいない。

怖がる人はいる。

警戒する人もいる。

でも、自然は自然としてそこに存在することを許されている。

雷は雷であることを説明しない。

山は山であることを証明しない。

ただそこにある。

私はそれが羨ましかった。

私はいつもちっぽけで、周りを気にして、出来の悪さを意識してしまう。

親、同級生、SNS、保護者、友人。

いろいろな人の視線を気にして生きてきた。

でも本当に苦しかったのは、他人からの評価そのものではなかった。

その視線を取り込んで、自分自身を批判する自分だった。

目次

魔法使いだった頃の私

私は昔から魔法がこの世に存在していると思っている。

何も会話を交わしていないのに相手の感情がわかること。

民間療法や自然療法の不思議さ。

妖怪や精霊のような存在。

物に宿る神様。

八百万の神。

そういうものを今でも尊いと思っている。

けれど、大人になった私の中にはいつも批評家がいる。

そんなものは非科学的だ。

そんなことを言ったら変な人だと思われる。

証明できるのか。

そう言って、私の中にある豊かな感覚を否定してくる。

でも今は、本当はその批評家こそが幻なのかもしれないと思うようになってきた。

詩を書くことについて

私は最近詩を書いている。

それは詩人になりたいからではなくて、自分の中にある感覚を取り戻したいからだ。

思い返せば、私は小学生の頃に詩に救われた。

小学校高学年の頃に詩の音読の宿題があった。

気に入った詩があると家で何度も黙読や音読の練習をした。

その時間が好きだった。

詩を読むと、自分の中にある豊かでクリエイティブな感覚が波立つのを感じた。

言葉から景色が見えて、主人公の目線で世界を見ることができた。

特に当時の私の心を震わせたのが、まど・みちおさんの「ぼくがここに」だった。

「ぼくがここにいるとき
ほかのどんなものも ぼくにかさなって
ここにいることはできない」

その言葉に衝撃を受けた。

なぜなら、それまでの私は成果を出さなければ存在を認められないような感覚の中で生きていたからだ。

でも、その詩は違った。

ぼくは、ただそこにいる。

それだけだった。

存在していることそのものが肯定されていた。

私はその世界に救われたのだ。

詩の主人公たちは、何かを成し遂げる必要がなかった。

ただ存在していた。

そして、作詞家たちによってその存在に関心を持たれていた。

私はそんな世界が好きだった。

今になって考えてみるとわかる。

私が雷に惹かれるのも、自然が羨ましいのも、詩を書き始めたのも、全部同じところに繋がっていたのだと。

私は世界を壊したいわけではなかった。

壊したかったのは、成果を出さなければ存在してはいけないという考え方。

人から評価されなければ価値がないという考え方。

魔法を信じてはいけないという考え方。

そういう分厚い自己批評の壁だった。

自分に素直になるのに、かなりの時間がかかった。

そした私はまだ、自分の心からの表現を全開にするには冷え冷えとした心持ちがして、
暑い外套を着ている。

完全に自由になれたわけじゃない。

だけど、私の心は戻ってきた。

長い間探していたものは、新しい自分ではなかった。

忘れていた自分だった。

詩を書いているうちに、私はようやくその子に会えた。

妖怪や神様を信じていた子。

言葉から世界を生み出していた子。

存在しているだけでいいと願っていた子。

小学生の自分にやっと会えたのだ。

ここまで読んでくれて、ありがとうございます。

もし今、 「誰にもわかってもらえない気持ちを、ずっと抱えてきた」 「普通を装ってきたけれど、本当の自分が置いてけぼりになっている」 そんな感覚を、少しでも持ったことがあるなら。

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『ユウからの手紙』

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