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子どもには、自分で自分の考えを持って、自分で選択できる人になってほしい。
私はこれまで、漠然とそう思ってきました。
そして、そこに至る以前に、豊かな感性を持っていてほしいという気持ちもありました。でも、「豊かな感性」とは具体的にどういうものなのか。そのために親として何をしたらいいのか。それ以上のことは、うまく言葉にできずにいました。
そんなときに読んだのが、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』です。
この本を読んで、これこそが、私が子どもたちに持ち続けてほしい感覚なんだと思いました。
同時に、私が子どもの感性を育てるだけではなく、子どもたちの方も、私の中で失われつつある感性を取り戻す手伝いをしてくれているのだと気づきました。
生き物の名前を教えるだけでは、何かが足りない
私もパートナーも、普通の人よりは生き物の名前に詳しい方です。
道端に生えている植物を見れば、大抵は名前が分かる。鳥や虫の鳴き声を聞いても、大体何の声か分かります。
だから、子どもと一緒に自然の中を歩いていると、つい「これは○○だよ」と名前を教えたくなります。もちろん、生き物の名前を知ること自体が悪いわけではありません。名前を知ったことで、もっと好きになったり、興味が広がったりすることもあるでしょう。
でも、それを覚えさせるだけでは何かが足りない。私はずっと、そんな感覚を持っていました。
『センス・オブ・ワンダー』を読んで、その物足りなさの正体が少し分かった気がしました。
大切なのは、正しい名前を知っていることよりも、そのものに出会ったときに何を感じるか。
夜に鳴く虫の声を聞いて、何を思うのか。今まで出会ったことのない世界を見つけたとき、目や耳、鼻、手触りなどを通して何を感じたのか。うまく言葉にできなくても、そのときに心が動いたことを忘れない。
「なんでだろう」と不思議に思ったり、「こうなのかもしれない」と自分なりの想像を巡らせたりする。そういう観察や発見の積み重ねが、感性を豊かにしていくのではないかと思ったのです。
「お月様は、雲のお家に帰ったんだね」
ある夜、子どもと一緒に帰り道を歩いていたときのことです。
明るい月が出ていましたが、空には少し雲がかかっていました。しばらく立ち止まって一緒に月を眺めていると、月が雲に隠れて見えなくなりました。
私が「隠れちゃったね」と言うと、子どもはこう言いました。
「お月様は、雲のお家に帰ったんだね」
なるほど、月はお家に帰ったのか。
私はその言葉にすごく感動して、「本当だね。月はお家に帰ったのか」と返しました。すると子どもは、ごく当たり前のように「そうだよ」と言いました。
「月が隠れた」というのは、観察している私たちの側から見た表現です。月はただ地球の周りを回っていて、たまたま見上げた角度に雲が重なっただけ。それを子どもは、自分が月を見ている側にいながら、月を中心にして考えていました。
月は、雲のお家に帰った。
そんな見方ができることがすごいと思ったし、これは私の中で失われつつある感性だとも思いました。
あのとき私がすぐに、「月が動いたわけじゃないよ。雲が重なったんだよ」と正しい説明をしていたら、そこで世界は閉じていたかもしれません。
正しさを教えるより先に、その子が見つけた世界を一緒に眺める。そういう時間を大事にしたいと思いました。
水たまりひとつあれば、子どもは勝手に遊び始める
我が家は近所に植物園があります。私が自然の中にいたいと感じたとき、一番手っ取り早く自然を体感できる場所です。
そこへ子どもたちを連れていくと、こちらが何もしなくても勝手に遊び始めます。子ども用の遊具があるわけではありません。ただ植物や土や虫がいて、季節ごとに変わる自然があります。
この間は、雨上がりに長靴を履いて出かけました。道には大きな水たまりができていて、三人は思い思いにその中へ入っていきました。
足で踏んで水の感触を楽しむ子。水面に広がる波紋を眺める子。水たまりに手を突っ込み、底にある土を握って感触を確かめる子。
同じ水たまりを前にしていても、見つけるものも遊び方も違います。
水たまりがない日には、木の根元でキノコを見つけたり、木の表面にくっついている虫を眺めたりします。何でもないトイレの近くの柱に尺取虫を見つけて、「ここに虫がいた! くっついてる」と教えてくれたこともありました。
遊具を与えなくても、自然の中にいれば、子どもは自分で遊びを作り出します。与えられたものではなく、自分が興味を持ったものを自分で選んで遊ぶ。その経験は、私が願っていた「自分で考え、自分で選択すること」にもつながっているのかもしれません。
私が子どもの頃に知りたかった「考える方法」
私は子どもの頃から、夏休みの自由研究にどこか物足りなさを感じていました。
それは、そのほとんどが自分の思いつきではなかったからだと思います。
だれかが、「これにしたら?」と言うものをやっていた。だから、「なぜ?」「どうすればいい?」と言う自分から湧き出てくる興味や好奇心に出会えなかったのです。
「なんでなんだろう」から始まって、「もしかしたら、こうなのかな」と仮説を立てる。それを調べたり試したりしてみる。違っていたら、別の仮説を考えて、もう一度試す。
物事を考えるときには、そんなふうに考えを深めていく方法があるのだと、もっと小さい頃に知りたかった。
けれど、学校で教わったのは、どう考えるかよりも知識や決められたやり方でした。数学も、なぜそう考えるのかということより、「こういう場合にはこう解く」と教えられる。生物も、なぜ生き物がそのような姿になっているのかを考えるより、「これはこういうものだ」と覚えることが中心でした。
私は大学で研究室に入るまで、仮説を立てて検証することが、考えるということなのだと実感できませんでした。それが面白いのだと、大人になるまで分からなかったことを、今も残念に思っています。
子どもの頃は、大人ほど覚えなければならないことや、果たさなければならない役割が多くありません。その分、「あれ、なんでなんだろう」と思ったことを自由に考え、試すことができます。
その瞬間の感覚を大切にして、子ども自身の経験として積み上げていけるように、私はサポートしていきたいです。
大人は、答えを教える人ではなく、一緒に面白がる人
では、大人は何をしたらいいのでしょうか。
今の私が思うのは、まず大人も一緒になって楽しむことです。
子どもと同じものを見ても、まったく同じ発見をする必要はありません。大人は大人なりに気づいたことを見つけて、「なんでなんだろう」「もしかしたら、こうなのかな」と口にしてみる。見たものに対して、自分の考えを言ってみる。その姿を見せることが、ひとつのお手本になるのではないかと思います。
そして子どもには、答えを示す前に聞いてみる。
「どう思った?」
「どうしてだと思う?」
「何が気になった?」
「何が面白いと思った?」
子どもが持っているものを引き出せるような質問ができたらいい。その答えが合っているか、間違っているかを、評価する必要はありません。
その子が目の前のものと向き合ってワクワクしていること。そこから新しい興味が生まれていること。それが何よりも大切なのだと思います。
好奇心を「何の役に立つのか」から守りたい
私は、大人の中では純粋な好奇心が残っている方だと思います。
道端の雑草に興味を持って調べたり、大学生の頃にはネジバナを見て「なんでこんな形をしているんだろう」と考えたりしてきました。
それでも大人になると、興味を持ったその先に、成果を求めてしまいます。
それが何になるのか。世の中にどんな価値を生むのか。社会にどう貢献できるのか。
純粋に面白いと思う気持ちと、その先に何かを生み出さなければならないという考えを一緒にしてしまうほど、子どものような感性は失われていく気がします。
子どもは、水たまりの底の土を握りながら、「これは何の役に立つのか」なんて考えません。月が雲のお家に帰ったと想像して、そこから何か価値を生もうともしません。
その姿を見ていると、私は成果主義のようなものにずいぶん毒されていたなと思います。そして、「いけない、いけない。私も子どもと同じ目線を持っていたい」と思うのです。
子どもに感性を与えているのは、大人だけではありません。私も子どもたちから、心が動いたことを、役に立つかどうかで選別しなくていいのだと教えてもらっています。
余裕がある時間に、一緒に世界を見る
もちろん、毎日いつでも子どもの発見に付き合えるわけではありません。
子どもの好奇心を見守れるかどうかには、親の心の余裕が大きく影響します。時間に追われているときに、道端の虫の前でいつまでも立ち止まるのは難しい。三人の子どもを見ながらなら、なおさらです。
だから私は、「いつも丁寧に付き合わなければ」と自分を責めるのではなく、時間に追われていないときに、子どもと一緒に楽しむ覚悟を持ちたいと思っています。
できるだけ週末には、自然のある場所へ一緒に出かけたい。もう少し子どもたちが成長したら、あえて夜に出かけて夜ならではの生き物を探したり、早朝に起きて鳥の声を聞いたりもしてみたいです。
同じ場所でも、時間や季節が変われば、出会える世界は変わります。その違いを、子どもたちと一緒に面白がってみたいと思います。
子どもを教育しなければ、と焦っている人へ
『センス・オブ・ワンダー』を読んで得たこの気づきは、まずパートナーにも共有したいと思っています。
私たちには、子どもたちに生き物や自然を好きになってほしいという共通の思いがあります。だからこそ、「好きになってほしい」の先にある、二人が大切にしたい感覚についても話してみたい。
そして、自然が好きで、子どもにも豊かな感性を持ち続けてほしいと思っている親に、この本をおすすめしたいです。
日頃、余裕を持って子どもに接することができず、罪悪感を抱えている人。「何かを教育しなければ」というプレッシャーから、知識を詰め込もうとしてしまう人。
そんな人にこそ、一度立ち止まって、本当に大切なことは何だろうと考えてみてほしいと思います。
子どもが何かを見つけたときに、すぐ正解を渡さず、「どう思った?」と聞いてみる。そして大人も一緒に、不思議がってみる。
子どもの中にある驚きや想像を守りながら、私自身も、もう一度世界を面白がっていきたいと思います。

