世界のフェミニズムやクィア理論を語るときに、必ず名前が出る名著——ジュディス・バトラーの 『ジェンダー・トラブル(Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity)』。
「ジェンダーは生まれつきではなく“演じられるもの”だ」という衝撃のアイデアを提示し、フェミニズム理論の歴史を大きく塗り替えた一冊です。いまや世界中の大学で必読文献とされ、出版から30年以上たった今でも引用され続けています。
そんなとんでもなくすごい本が、オープンアクセスで誰でも無料で読めるのです。
しかし、実際にページを開いてみると、「英語」「哲学用語だらけ」「とにかく難しい」という三重苦。
そこで私は決めました。ChatGPTに“中学生でもわかるように”かみくだいてもらいながら、この本を少しずつ読み進め、解説していこうと。
このシリーズでは、フェミニズムやクィア理論について知識0の筆者が、難解な議論を肩ひじ張らずに解説しつつ、私自身の「なるほど!」「ここわからん!」といったリアルな反応も残していきます。
名著を一緒に探検するような気分で、ゆるく楽しんでもらえたら嬉しいです。
前回までの内容はこちらです。

さて、このシリーズも第二章に入っていきます。
第二章では、
「性がどうやって“作られる”のか」
「ルールや禁止はどう性を形づくるのか」
という、本書の核心部分に踏み込みます。
相変わらず私は知識0からのスタートで、
「えっ何の話?」「これはどういう意味?」と立ち止まりながらの読書ですが、
そのリアルな戸惑いや発見も一緒に楽しんでもらえたら嬉しいです。
第二章のテーマ
第二章のタイトルは
Prohibition, Psychoanalysis, and the Production of the Heterosexual Matrix.
直訳すると「禁止、精神分析、そして異性愛マトリックスの生産」です。
ここでは、性やジェンダーが「社会のルール」や「文化」によってどのように作られてきたのかを、精神分析や人類学の議論をもとに読み解いていく章になります。
その本編に入る前に書かれているのが、今回解説していく「序文」です。
この序文には、バトラーが第二章で扱う議論の土台にしたい重要な問題意識が凝縮されています。
正直、タイトルだけで心が折れそうですね笑
はじめに:第二章の序文は何を語っているのか
第二章の序文では、フェミニズムの中でよく語られてきた
「女性とはこういうものだ」
「昔は女性がもっと自由だった」
「男性支配はどこでも同じ構造だ」
といった“わかりやすく整理された物語”をいったん立ち止まって見直そう、という話が中心にあります。
バトラーは、こうした“単純化した説明”が
かえって女性の多様な経験を見えなくしてしまう、と注意を促しています。
ここではまず、その理由を丁寧に解説していきます。
「昔は女性が自由だった」説とは何か
フェミニズムの中には、男性中心の社会が始まる前には「女性がもっと自由に生きていた時代があった」という説があります。
この説は、フェミニズムの一部で
「昔は男女平等がもっと実現していたのだから、今の性差別は“自然ではない”」
という主張をするために語られてきました。
たしかに希望を感じる言い方です。
- “昔はできていたことが失われた”と考えると、
「じゃあ取り戻せるはず!」という気持ちになる - “自然な状態は平等だった”と言えると、
現在の不平等を批判しやすくなる
これはたとえば、
「昔の日本は母系社会だったから、女性がとても強かった」
「縄文時代はみんな平等だった」
といった“ロマンのある歴史”が語られるのと似ています。
でも実際の歴史は、資料が少なかったり、断片的だったりして、
「本当にそうだったのか?」を確かめることが難しい。
願望が混ざりやすく、
“理想化された歴史”が作られてしまう危険があるのです。
パトリアルキー(父権制)とは何か
パトリアルキー(父権制)とは
家族や社会の中で「男性(特に父)」が中心になりやすい仕組みのこと。
もっと身近な言葉にすると
「男のほうが決定権を持つようになっている社会のルール」
です。
たとえば:
- 親族の名前を“父側”で継ぐ
- 家の財産を“男性”が継ぐ
- 男が働き、女が家事育児をするのが理想とされる
- 会議では男性が中心、女性はサポート役に回りやすい
こうした仕組みを全体として“父権制(パトリアルキー)”と呼びます。
「父権制は世界共通」とは考えないほうがいい
同じ「父権制」と呼ばれても、中身は文化ごとに全く違います。
たとえば
- 日本の「家制度」
→ 戸主(家長)は父で、嫁いだ女性は夫の家に入る - 古代ギリシャ
→ 市民権を持つのは男性のみで、女性は政治参加できない - 中東の一夫多妻制
→ 家族構造自体が日本・欧米とは異なる - アメリカの近代家族モデル
→ 夫が働き、妻が専業主婦という「理想像」が戦後に形成された
どれも男性が中心になる仕組みを含むけれど、
まったく同じではありません。
にもかかわらず
「父権制はどこでも同じ構造」
と言ってしまうと、文化ごとの“女性の経験のちがい”が見えなくなってしまいます。
「本来の女性らしさ」という考え方の危険性
女性には“生まれつきこういう特徴がある”と決めつけてしまうことを本質主義(エッセンシャリズム)と呼ぶ。
たとえば:
- 女性はやさしい
- 女性は感情的
- 女性は母性を持つ
- 女性は子どもを産むべき
こうした“自然な女性らしさ”という言葉は、一見ポジティブにも見えます。
しかし、この考え方には問題があります。
たとえば
- 子どもを産まない女性
- 恋愛をしない女性
- ボーイッシュでいたい女性
- 家事育児より仕事が好きな女性
こうした人たちは、“女性らしさ”から外れてしまい、
「本来の女性ではない」
という扱いを受ける場合があります。
つまり、“自然な女性性”という言葉が、
女性の多様性を切り捨てる武器になってしまうことがあるのです。
エッセンシャリズムについては、こちらの記事で詳しくまとめています↓

「自然=性」「文化=ジェンダー」という分け方も実は不正確
「性(sex)は自然で、生まれつき決まるもの。ジェンダーは文化が作るもの」という、よくある説明のこと。
これは学校でもよく聞く説明ですが、
バトラーは、ここにも問題があると言います。
でもバトラーは問い返します。
その「自然」という言葉は、誰がどう決めたのか?
たとえば歴史的に、こんなふうに言われることがありました。
- 女性=身体、感情、自然
- 男性=理性、文化、社会
つまり「自然」という言葉そのものが、
- 女性を家庭に閉じ込めるために
- 出産を義務のように見せるために
- 感情的だと軽視するために
使われてきた歴史がある。
するとどうなるか。
「これは自然だから仕方ない」
という言葉が、
実は文化的な価値観を隠すためのラベルになる。
だからバトラーはさらに踏み込みます。
そもそも“生物学的性(sex)”も、言語や医学や制度の中で意味づけられてきたのではないか?
たとえば:
- どこまでを男性身体と呼ぶのか
- インターセックスをどう分類するのか
- ホルモンや染色体をどう扱うのか
これらは単なる自然の中の事実ではなく、
医学や法制度の中で整理されたカテゴリーです。
つまり、
sex(生物学的性)ですら、社会の枠組みの中で整理されている
ここが、バトラーが“根本から問い直している”ポイントです。
性の「起源」を語ることの危険性
起源神話とは、「昔こうだったから今こうなっている」という、現在の価値観で作られた歴史物語のこと。
たとえば:
- “昔はこうだったから、女性は本来こうあるべき”
- “昔は男女平等だったから、今も戻るべきだ”
こうした“起源の物語”は、
歴史的に正しいかどうかよりも、
今の価値観を正当化するために作られやすい特徴があります。
第二章では、こんな理論が出てきます
第二章では、バトラー自身の主張だけでなく、
いくつかの有名な理論が登場します。
今回は「こんな話が出てくるよ」という紹介だけにします。
① フロイト(精神分析)
子どもは成長の過程で、
親への欲望や禁止を経験しながら、
「男らしさ」「女らしさ」を身につける、という理論。
※ただし、この理論は男性中心に組み立てられているという批判もあります。
② レヴィ=ストロース(人類学)
社会は「近親相姦の禁止」によって成り立つ、
という考え方。
家族の中で結婚してはいけないから、
外の集団と関係を結ぶ。
これが社会の基本構造になる、という議論。
③ ラカン(精神分析の再解釈)
「父の法」という概念を使い、
子どもが社会のルールの中に入る仕組みを説明します。
ここでの「法」は、
国家の法律ではなく、
“社会に入るための見えないルール”のこと。
そしてバトラーは、これらをそのまま受け入れるのではなく、
これらの理論自体が、異性愛を前提にしていないか?
と問い直します。
ここで出てくるのが
異性愛マトリックスという概念です。
異性愛マトリックスとは異性愛マトリックスとは?
「異性愛マトリックス」とは、
“男/女”という身体の分類・ふるまい・好きになる相手が、セットでそろっているのが普通だとされる仕組みのことです。
もう少しかみくだくと、こんなイメージです。
社会には、見えない「正解パターン」のようなものがあります。
具体的には
- 男の身体
→ 男らしいふるまい
→ 女性を好きになる - 女の身体
→ 女らしいふるまい
→ 男性を好きになる
この3つが揃っていると、
特に何も言われません。説明も求められません。
でも、
- 男の身体だけど、女性的な服装をする
- 女の身体だけど、女性を好きになる
- そもそも「男/女」という分類にしっくりこない
こうした場合には、
「どうして?」
「それって普通なの?」
と、説明を求められることが多い。
つまり社会には、
身体の性・ふるまい・欲望の向きについて、
多くの人が“普通”だと感じるテンプレのようなものがある。
バトラーは、この「テンプレ」が当たり前に見えている状態を
異性愛マトリックスと呼びました。
ポイントは、
それが誰かに明確に命令されているわけではない、ということ。
法律に書いてあるわけでもなく、
学校で正式に教わるわけでもない。
でも、
- 何気ない会話
- 家族の期待
- テレビや物語の描き方
- 「そのうち彼氏/彼女ができるね」という一言
そうした日常の繰り返しの中で、
「この組み合わせが自然だよね」という感覚が作られていく。
異性愛マトリックスとは、
その“自然に見えている組み合わせ”そのものなのです。
そしてバトラーは問いかけます。
そのテンプレは、本当に自然なのか?
それ以外の組み合わせは、なぜ“例外”扱いされるのか?
第二章では、その仕組みがどう作られてきたのかを探っていきます。
序文のまとめ
バトラーが第二章の序文で強調しているのは、次の点です。
・“自然な性”や“本来の女性性”という言葉には危険がある
・「昔の女性は自由だった」という物語は理想化されやすい
・「パトリアルキー」という言葉は使い方しだいで多様な経験を消してしまう
・性の“起源”を語ること自体が政治的な意味を帯びやすい
これらはすべて、
“単純化されたジェンダー観”への批判です。
序文の最後でバトラーは問いかけます。
「性はどのように作られてきたのか」
「“法”はどうジェンダーを形づくるのか」
「そのルールの中で、どんな“ズラし”が可能なのか」
この問いが、第二章本編の核心となっていきます。
読んでみて感じたこと
今回の第二章の序文を読んで、一番心に残ったのは
「私たちが当たり前だと思ってきた“女性像”や“性の起源”は、本当に自然なのか?」
という問いでした。
私はこれまで、“女性らしさ”というものにずっとしんどさを感じてきました。
でも、それは幼い頃から「自然にそう思うもの」「身体から湧いてくるもの」だと教えられ続けていたものだったように感じます。
バトラーが語るように、
「自然な性」も
「本来の女性性」も
「昔あったはずの“自由な女性の時代”」も、
実はすべて 誰かが語った“物語”かもしれない。
この視点に触れたことで、
「じゃあ私が生きづらさを抱えてきたのは、“自然じゃないから”じゃなくて、“誰かが考えた物語に合わなかったから”なんだ」
そう思うと、自分は社会の除け者じゃないんだ、良かった、と思えます。
今回も何度も立ち止まりながら、ChatGPTに質問しまくりながら理解を進めました。
・“本来の女性性”ってそもそも何?
・“自然/文化”という区分はどう作られたの?
・“パトリアルキー”って本当に世界共通なの?
・なぜ起源の物語は危険になるの?
疑問が出るたびに、一つずつ丁寧にほぐしてもらいながら読んでいくと、
ようやく、バトラーが何を言おうとしているのかが見えてきました。
それはきっと、
“本当の女性らしさ”という物語に押し込められて苦しんできた人たちの声だとも思います。
私のように、自分の性自認に揺れがあったり、そもそも「女」というカテゴリー自体に違和感がある人たちの声。
バトラーは、
「誰かが考えた多くの人が当てはまる物語」の逃げ道を用意してくれている。
そんなことを感じた序文でした。

