エッセンシャリズムとは、「人や物事には、生まれつき変わらない本質がある」と考える見方のことです。
とても簡単に言えば、「〇〇とはこういうものだ」と、あらかじめ決まった核があるとする考え方ですね。
たとえば、「女は感情的な生き物だ」「男だから論理的」といった言い方も、その一例です。
こういう考え方は時に、性別や立場だけで、その人の性格や生き方まで説明してしまう考え方になり得ます。
私がこのエッセンシャリズムという言葉を初めて聞いたとき、正直ちょっとモヤっとしました。
「本質」「生まれつき」「変わらない」という割には、その内容が本質とは関係のない「表面的なこと」に思えたからです。
そこで今回は、chatGPTに私が感じた疑問を投げながら、学びを得たことを中心に、エッセンシャリズムについて考えたことをまとめました。
エッセンシャリズムって、そもそも何?
エッセンシャリズムは、日本語では「本質主義」と呼ばれる考え方です。
とてもシンプルに言うと、「〇〇には、生まれつき変わらない性質(本質)がある」と考える立場を指します。
この考え方自体は、非常に古くから存在します。
哲学の世界では、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの時代から、「物事には、それをそれたらしめている本質がある」と考えられてきました。
もともとは、人間に限らず、自然や物の成り立ちを説明するための枠組みだったのです。
しかし、この発想が人間そのものに向けられるようになると、少し様子が変わってきます。
哲学ではエッセンシャリズムは、
「人間の性格・能力・役割・集団・感情に、変わらない本質があるのか」
という問いとして、繰り返し議論されてきました。
ここで問題とされてきたのは、「本質が存在するかどうか」そのものではありません。
むしろ、社会的・文化的に作られた特徴を、自然で不変の本質として扱ってしまうことが問題視されてきました。
その結果、個人の多様性や、変化していく可能性が見えにくくなることが指摘されています。
たとえば、次のような問いです。
・恋愛感情や性的欲求は、人間に普遍的な本質なのか
・人の性格や能力は、生まれつき決まっているのか
・男女には、本質的で普遍的な違いがあるのか
・母親・父親といった役割は、その人の本質なのか
・国籍や民族に共通する本質は存在するのか
こうした考え方は、哲学の議論にとどまらず、日常の中にも広く見られます。
「男なんだからこうだよね」「女なら普通こうでしょ」といった言葉も、その延長線上にあるものです。
近年では、フェミニズムやジェンダー論、社会学の文脈において、
「エッセンシャリズム」という言葉は、当たり前だと思われている前提を一度疑ってみるための言葉として使われることが多くなっています。
つまり、「それは本質だと決めてしまっていいのだろうか?」と立ち止まるための問いとして、
「それ、エッセンシャリズムじゃない?」
という形で用いられることがあるのです。
「エッセンシャリズム」をネットで調べると…
「エッセンシャリズム」という言葉をインターネットで調べると、
「本質に集中する」「重要なことにフォーカスする」といった、
前向きで実践的な説明が多く見られます。
この文脈で使われているエッセンシャリズムは、
- 情報や選択肢が多い中で、優先順位を明確にする
- 不要なものを削ぎ落とし、重要な要素に集中する
といった意味合いで用いられており、
いわゆる「本質思考」「エッセンス重視の考え方」に近いものです。
哲学や社会学、ジェンダー研究などの分野で使われる
エッセンシャリズム(本質主義)は、意味が異なります。
今回扱うのは、哲学や社会学、ジェンダー研究などの分野で使われる
エッセンシャリズム(本質主義)のお話です。
ここでいう「本質」って、どういう意味?
ここで少し立ち止まって考えたいのが、「本質」という言葉そのものです。
エッセンシャリズムの文脈で使われる本質は、その人の中心や核、決定打のようなものとして扱われがちです。
「それがわかれば、その人が説明できる」
そんな便利なフレーズのように使われることもあります。
でも、私が違和感を覚えたのはここでした。
本質だと言われているものの多くが、よく見てみると、
・文化の影響
・社会のルール
・育った環境や経験
こうした後天的な要素と強く結びついているように思えたからです。
私がイメージする「本質」は「その人の深い部分にある核」のようなイメージとは離れていて、
実際には説明を楽にするための前提として、「本質」という言葉が使われているんじゃない?と思いました。
男女という区分も「その人を決定づける本質」ではなく、かなり表層的な情報に近いと感じています。
それなのに、まるで核心のように扱われる。そこにズレを感じました。
男女って、本当に「本質」なんだろうか?
エッセンシャリズムの考え方の中には、男女の違いを「本質」として説明しようとするものがあります。
男と女には生まれつき決定的な差があり、それが性格や感情、向いている役割まで決めている、という見方です。
ここで疑問が湧きあがります。
どうして、生物学的な性別の話と、社会の中で期待されてきた役割や振る舞いの話が、
一緒に語られているんだろう?
身体の違いについては実際に起こっている現象だから、
女性の体はこう、男性の体はこう、というのは理解できる。
でも、いつのまにか
「女だから共感力が高い」
「男だから論理的」
といった形で、性格や内面の話にまで話が広がっていきます。
その結果、その枠に当てはまらない人は「少数派」や「例外」として扱われがちです。
でも私は、それは人がズレているのではなくて、最初のラベリングがあまりにも大ざっぱなのではないか、と感じています。
「女なのに」「男なのに」と言われて、言葉にできない違和感を覚えたことがある人なら、この感覚に心当たりがあるかもしれません。
その引っかかりは、あなたの感覚が間違っているサインではなく、「本質」という言葉を一度問い直してみてもいい、という合図なんじゃないかな、と思います。
表層的な属性を「本質」扱いすると、何が起きる?
表面的な特徴を本質として扱うと、日常の中で次のような歪みが生まれやすくなります。
・一般化や決めつけが強まり、個人差が見えにくくなる
・当てはまらない人が「ズレている」と感じやすくなる
・違和感を言葉にする前に、自分を否定してしまう
「〇〇だからそうなんだよ」という説明は、一見わかりやすい反面、それ以上の対話を止めてしまうことがあります。
ラベルが答えになってしまい、本人の経験や感覚が置き去りにされてしまうのです。
この構造を鋭く指摘したのが、ジュディス・バトラーの著書 ジェンダー・トラブル です。
バトラーは、男女やジェンダーを固定された本質ではなく、社会の中で繰り返し求められ、演じられてきた振る舞いの積み重ねとして捉えました。
この視点に立つと、「女だから」「男だから」という説明は、人を深く理解するためというより、分類しやすくするための簡略化に過ぎないことが見えてきます。
その結果、枠に収まらない人が「例外」や「ズレ」として扱われ、生きづらさが静かに積み重なっていくのです。

「本質」から外れていると感じたときに、私たちにできること
「本質」から外れていると感じる瞬間は、
自分がおかしいからではなく、
本質だとされているものが、実はとても狭い枠だったということが何となく見えてきました。
エッセンシャリズムを学ぶことを通して、
問題なのは「本質があるかどうか」ではなく、
誰が、どの立場で、何を本質と呼んでいるのかという点だということがわかりました。
本質は、最初から決まっていなくてもいい。
揺れていてもいいし、途中で変わってもいい。
名前がつかなくてもいい。
ラベルは、自分でつけたり考えるための道具であって、
人を縛ったり、説明を押し付けるものではありません。
言葉と少し距離を取りながら付き合うことで、
「当てはまらなければいけない」というプレッシャーから離れられるかもしれません。
私もまだ、自分の本質が何かはわかりません。
それを探求するのもまた、人生の楽しみの一つなのかも。
あなたは、あなたのままでいい。
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